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大津地方裁判所 昭和31年(わ)198号 判決 1960年3月19日

被告人 小畑泰隆

昭一三・二・二一生 板金工

主文

被告人を懲役壱年に処する。

但し本裁判確定の日から参年間右刑の執行を猶予する。

本件公訴事実中放火の点につき被告人は無罪。

理由

第一、

被告人は

一、(一)昭和三十一年三月二十日頃大津市坂本本町比叡山延暦寺山下事務所倉庫において、用度係今井常玄保管にかかる絵葉書七十五組時価合計約三千七百五十円相当のものを窃取し、

(二)同年五月二十日頃右同所において同人保管にかかる絵葉書七十五組時価合計約三千七百五十円相当のものを窃取し、

(三)同年七月中旬頃右同所において、同人保管にかかる絵葉書百組時価合計約五千円相当のものを窃取し、

(四)同年七月二十日頃右同所において、同人保管にかかる書籍比叡山十五冊時価合計約三千円相当のものを窃取し、

(五)同年八月四日頃右同所において、同人保管にかかる書籍比叡山十冊時価合計約二千円相当のものを窃取し、

(六)同年八月二十五日頃右同所において、同人保管にかかる写真帳百冊時価合計約五千円相当のものを窃取し、

(七)同年十月四日頃右同所において同人保管にかかる絵葉書百組時価合計約五千円相当のものを窃取し、

(八)同年十一月五日頃右同所において、同人保管にかかる絵葉書百組時価合計五千円当のものを窃取し、

二、(一)同年七月七日頃同市坂本本町比叡山延暦寺山上事務所において、同事務所主任福恵英善保管にかかる現金約千円を窃取し、

(二)同年七月下旬頃右同所において同人保管にかかる現金約二千八百円を窃取し、

(三)同年八月二十七日頃右同所において、同人保管にかかる現金約五百円を窃取し、

(四)同年九月二十六日頃右同所において同人保管にかかる現金約五百円を窃取し、

(五)同年十月八日頃右同所において、同人保管にかかる現金約五百円を窃取し、

たものである。

(証拠の標目略)

法律に照すと、被告人の判示の各所為はいずれも刑法第二百三十五条に該当するところ、以上はいずれも同法第四十五条前段の併合罪であるから同法第四十七条本文、第十条に従い犯情最も重い判示一(三)の罪の刑に法定の加重を為した刑期範囲内において、被告人を懲役壱年に処し尚諸般の情状を斟酌して同法第二十五条第一項に依り本裁判確定の日から参年間右刑の執行を猶予する。

第二、

放火についての公訴事実は、被告人は昭和三十一年十月十一日午前一時頃、大津市坂本本町比叡山延暦寺大講堂に放火せんことを企て、被告人の止宿していた同寺山上事務所の受付室押入の長箪笥抽斗内から直径約一糎、長さ二十糎の西洋ローソク一本を取り出して大講堂に到り、同建物西側出入口の戸の施錠を鍵で開けて屋内に入り所携のマツチで右ローソクに点火して外陣南側東寄りの蔀戸に立てかけてあつた畳に火を放つて右建物に引火せしめ因つて人の現住しない重要文化財指定建物である延暦寺執行藤枝哲道管理にかかる前記大講堂一棟を焼燬した外同非現住建物である鐘台、前唐院、受付、食堂、便所各一棟に延焼せしめて焼燬したものであるというのである。

検察官において右の如く主張する論拠は検察官提出の論告要旨書記載の理由のとおりである。よつて以下先ず検察官の起訴状記載以外の原因で本件火災になつたのではないかとの疑問を検討し、次いで右論告要旨書記載の順序に従つて検察官の主張事実の当否について検討を加えることとする。

一、昭和三十一年十月十一日早暁大津市坂本本町所在、人の現住しない重要文化財指定建物である延暦寺執行藤枝哲道管理にかかる大講堂一棟が焼燬した外、同非現住建物である鐘台前唐院受付、食堂、便所各一棟に延焼してこれをも焼燬したことは司法警察員川副順一郎作成の昭和三十一年十月十一日付(以下昭31・10・11付と略記する以下他の調書についても同形式をとる。)大講堂出火事件実況見分調書、中西千佐作成の昭31・11・5付現場鑑識結果報告書、京都市消防局警防部予防課勤務技術吏員安藤直次郎作成の昭31・11・10付火災鑑識報告書及び同添付写真、大阪府警察本部技師細井三郎作成の昭31・12・20付鑑定書、小堀光詮の司法警察員に対する昭31・11・2付供述調書、司法巡査大橋竜吉作成の昭31・10・12付捜査復命書、及び第十一回公判期日における証人前田平右ヱ門の供述記載を綜合すればこれを認めるに十分である。

二、然らば本件火災は何に起因するものか。

(一)先ず考えられることは漏電である。小堀光詮の司法警察員に対する昭31・11・2付供述調書には「なお(大講堂)内陣の電気関係は裏側の石段の左隅のところから、パイプで内陣に入つて板壁に配電盤が取付けてあり、そこには三ヶのスイツチとメーターがありましたし、それから西入口の左の柱に一個スイツチがあつて、このスイツチで十二個の電燈が点滅でき、三個のスイツチの内一個は常夜灯、一個はメインスイツチ、一個は全部のものを点滅するようになつていたと思います。この電気は常夜灯のみが毎日点け放しで消灯はしないし、西入口のスイツチは参詣者を内陣に案内する時に点灯するもので必要のないときは消灯してあります」「なお外陣には電気設備はない」との記載、同調書添付図面記載(別紙図二)の常在灯の位置、大阪府警察本部刑事部鑑識課技師細井三郎作成の昭31・12・20付鑑定書の記載、特に「鑑定結果」なる項に「(一)出火後における前記配線について漏電したと思われる個所はなく、その可能性はないものと認められる。配線より短絡乃至スパークしたと思われる個所は見受けられず、又短絡乃至スパークによる発火の危険性及び可燃物への着火は前記のヒユーズの場合その可能性はないものと認められる。(二)右配線について過電流の流れた形跡はなく、過電流による着火の可能性もない(三)出火後に於いて前記設備器具から発火する事は考えられない。(四)その他の電気による出火原因と思料される原因についても考えられない状況である」との記載及び後記する如く本件火災の出火位置が電源から遠く離れた大講堂外陣東南隅床上附近である事実から考察すれば本件火災原因を漏電なりとすることは到底できないところである。

(二)に大講堂内の火器からの出火ではなかろうか。前記小堀光詮の調書に「外陣は全部板間で、正面の内陣と外陣との境に常香盤一個と、経机の上に火舎が一個と焼香器が一個と、常香盤の左側に高さ四尺位の三段になつているローソク立て(金製)一個、それから正面入口には、さい銭箱(木製)一個、その右側にローソク立て一個」存在する旨、更に「大講堂での火気使用の状況は内陣の電気の外は外陣の常香盤、火舎、ローソク立てのみであり、この点灯の方法は、(イ)常香盤高さ二尺縦横一尺五寸位の木製で点火する部分の底は銅板が張つてあり、下の方は二段の抽斗になつていて抽斗の上段には抹香が一杯詰めてあり、下段には残灰をならす櫛形の板と木製の匙とのような型が入れてあり、銅板の上は灰があつて、その上にのような型をおきその型の上に抹香を敷き線香で外側から抹香に点火しますし、一回点火すると約六時間持続し消えたときは更らに同一方法で点火しますが、この常香盤は一般参詣者は焼香しません。(ロ)次は火舎でありますが、この火舎は直径三寸五分位高さ二寸位の真鋳製(のようなもの)で中には灰が入れてあり、その灰の上にコの字型に溝を作りその上に抹香を敷き、上の左端から線香で点火、これは約一時間位持続しますし、一般参詣者が焼香するので消えてしまうことは珍しいのですが梅雨期は消えることがあり、消えた場合は同一方法で点火します。この火舎は経机の上に乗せてあつたものです。(ハ)ローソク立は(中略)金属製のもので三段になつておりましたが、何本ローソクが立てられるか知りませんが、根本中堂と同じ(根本中堂上段九本、中段十本、下段十三本立てられるようになつている)であり、立てるローソクは洋蝋の鉛筆より稍々太い長さ二寸五分位のものでありますが寺院としては毎朝二、三本点灯してその後は参詣者が一本十円で希望によつて点灯することになつており、平常はローソク入箱に六、七十本用意してあります」との記載、第三回公判調書中検察官の「十月十日の朝証人は大講堂へ行つてから常香盤や大火舎にどのように火を入れて準備したか」との問に対し証人徳江宏正の「常香盤は盤の上の木箱の中にある灰の上をU字型にくり抜いた板で押しつけてその上に抹香を入れ、点火した線香で抹香の火をつけるのです。常香盤の抹香は火をつけてから六、七時間で消えるようになつております。大火舎の方は一時間位で消えます。十月十日は両方とも午前十一時頃に火をつけました。それで私達が帰る時には完全に消えています。」「十日にはローソクを使つたか」との問に対し「使つておりません」との記載更に同証人の常香盤の抹香を入れる部分はブリキで作つてあつて絶対危険なことはない。大講堂正面入口の賽銭箱東側と焼香机西側とに献灯用燭台(ローソク立)があり賽銭箱東側にあるローソク立のローソクはなかつたものと思う旨の記載を綜合すると、火災前日大講堂閉扉時には堂内火器には火気は既に消滅し全く存しなかつたものとしなければならぬ。

(三)火災発生に近接した日時における撮影のための失火ではなかろうか。第四回公判調書中証人小堀光詮の供述記載によれば昭和三十一年十月九日、大津市役所観光課か大津観光会社かいずれかの柴田なる者から大講堂内の仏像撮影方申入があり、被告人が案内して大講堂内に入り右柴田が三百ワツト位の電球をつけ撮影したことを被告人や勝山等より聞いたこと、第六回公判調書中証人生田孝憲の供述記載によれば延暦寺の建物や諸行事を天然色映画に宣伝するため京都市河原町三条、日本文化録音協会の魚住吟像氏に撮影方を依頼し、同人が同月十日大講堂の朝日に映える写真、垂木、ひじ木、軒先の出方等外部からのものを一枚撮影したこと、同月頃京福電鉄会社の岩切と称する者が大講堂内のスライド写真を撮影したが、それは写真ランプで撮影した事実が認められる。而して前記柴田が三百ワツト位の電球を使用したことが、到底漏電の原因を為したものと考えることができないことは既に述べたところから明らかである。また、天然色映画撮影は大講堂外部からの撮影であり、スライド写真撮影は写真ランプに依るものであるから、いずれも本件火災の原因を与えたものとは考えられない。

(四)本件火災は参拝者、浮浪者等の失火ではなかろうか、大講堂は昼間ならば何人も自由に外陣に出入し得るが、閉扉後は正面及び東西扉のいずれかを開かない限り内部えの出入は不可能であることは小堀光詮の昭31・11・2付警察調書、前記大講堂出火事件実況見分調書等から知り得るところである。しかしながら、第十一回公判調書中、証人生田孝憲の供述記載、右小堀光詮の昭31・11・2付警察調書によれば大講堂外陣床下周囲は二寸位の間隔で縦連子になつており、人間は出入困難であるが唯西入口下は二尺位取除きができることは比叡山山上勤務者中少数の者には知られていたが火災後正面入口石段下に人間の出入し得る位右連子が取除けられていたことが判明したことが認められる。けれども前記生田証人の供述記載によれば山上には乞食や浮浪者のいないこと、前記安藤直次郎作成の「比叡山延暦寺大講堂の火災鑑識について」と題する報告書により本件火災直後、出火地点と認められる地点に紙、ぼろ(古布片の如きもの)或は莚、叺、俵等の如き焼燬物の残骸並に易燃性液体物質の特有臭気等は認められなかつたこと、第九回公判調書中証人中野勇の供述記載によれば、火災当時捜査当局においては当時大講堂内の火気の使用状況、特に昭和三十一年十月十日の使用状況、参拝客の煙草による失火ではないか参拝客の怨恨によるか或は不審者の放火ではないか等について捜査が為されたがいずれも否定的結論に達したこと第八回公判調書中証人衣斐範夫の供述記載によると十月十一日の朝ルンペン風の男が坂本を徘徊していたので調べたところ本件に関係のないこと、又山上の修行者についても調べたがいずれも本件に関係のないことが判明したこと等が認められる。そうすると本件出火が参拝者浮浪者等の失火であると断定することも困難なところである。

三、検察官の起訴は、本件火災の原因を被告人が昭和三十一年十月十一日午前一時頃大講堂外陣南側東寄りの蔀戸に立てかけてあつた畳に火を放つたが為めであるとするものである。

(一)それで先ず本件火災の燃焼時間及び出火地点について考察しよう。この点に関しては、火災直後の現場状況を知り得るものには司法警察員川副順一郎作成の昭31・10・11付実況見分調書と京都市消防局警防部予防課勤務技術吏員安藤直次郎作成の昭31・11・10付「比叡山延暦寺大講堂の火災鑑識について」と題する報告書(いずれも前記)があり、又前記の二点についての専門的見解を知るためには右安藤報告書と鑑定人鈴木茂哉同熊野陽平同今津博の共同作成に係る昭34・7・31付「比叡山延暦寺大講堂火災事件鑑定書」があるので後二者について比較検討する。先ず安藤鑑識報告書によれば同技術吏員は大津市消防長宮嶋真澄の依嘱によつて本件火災について原因鑑識を行うため昭和三十一年十月十二日より同月十三日、十四日に至る期間現場に出張し各日共略々午前十時頃より午後五時三十分頃まで大津地方検察庁北元検事、滋賀県警察本部刑事部鑑識課長、滋賀県警視河内義信、大津警察署滋賀県警部岡本恒之、大津市消防署大津市消防司令補諏訪順一等立会の上火災現場に残存していた事物について本件火災の原因鑑識を行つたこと、而して、該鑑識報告書によれば出火地点については(一)大講堂周囲の立木に及ぼした輻射熱の影響より輻射線の作用した方向(二)大講堂(建物)を構成している木骨類の倒壊状況よりの延焼方向の二観点から出火地点は一応正面階段東端より東へ約六―七米にして北寄り附近と認定することが妥当なりとして、外陣東端より西に向つて発掘を進めたところ、外陣の東端より二本目の柱附近より発掘した束、柱の根元(修理の際に切り継ぎされた部分これより上部は現場に倒壊していた)の焼燬度は次第に高度となる様相が明確に認められ二本目と三本目の柱中間部附近において畳の残骸を発掘したのであるが、この位置を西に距るに従つて次第に束柱の焼燬度が低下する状態が明確に認められ別紙図面(安藤鑑識書中の図面)中畳(A)は上部に累積していた焼燬物の残骸主として消し炭、土砂、金属の熔融残骸、小木材の炭化物を順次上部より除去した際に殆んど地表部において発見され、全体が完全に炭化して所謂黒色の藁灰となり畳略々二枚分と推定し得られ略々縦を南北としてその下に床板の炭化物を隔てて直接地表に接しており、その北端は平面図(安藤鑑識書中の図面)に示した如く束を焼失欠如した土台石上に接しその焼燬した状況は安藤鑑識報告書添付写真No.23(A)(B)の如くであり、この状態は該畳は火災に際してこの部位では初期に床下に落下したものと認めることが妥当と思料されたこと、畳(B)は火災鎮火後より発掘時までに約二十四時間以上経過していたが発掘時においては尚燻焼を持続していたものの如く発煙していた状態であり、上部の焼燬木材の残骸を除去せずとも畳と容易に判断され得る状態で、累積物の上部、倒壊木骨の下部に存在し中心とその周囲畳面の約三分の一と略々認められる範囲が未炭化の部分を止め推定約四―五枚分が縦を略々東西として重積して存在していた。順次上部より除去したのに下部二枚分程は炭化し、尚火気を存し燃焼を持続していた。この状況より推して該畳の下部は鎮火後においても燃焼が持続していたのであるから(A)と比較するとその焼燬度は低いと判定せざるを得ないことが認められ、更らに第十六回公判調書中の証人安藤直次郎の供述記載中、弁護人問「Aの畳が一番よく焼けていてAの畳の付近が出火地点であると判断したのか」同証人答「そのように判断しました」裁判官問「Aの畳が発見された状況から見て火災前Aの畳は蔀戸に立てかけてあつたものがずれてそのような状態に落ちたものと見るべきか、それともAの位置の床上にAのような状態で置いてあつたものと見るのが妥当か」同証人答「始からAの位置の床上にAのような状態で置いてあつたものが燃えて落ちたと考えるのが一番考え易いと思います。蔀戸に立てかけてあつたものがAの位置まで移動して落ちたものと考えるには特別条件が要ります」との記載を綜合すれば同証人は右畳(A)の地点が本件火災の出火点なりと断定しているものといわなければならない。他方前記鑑定人鈴木茂哉外二名共同作成の鑑定書によれば、鑑定事項(一)大講堂(鑑識報告書写真及び実況見分調書、青写真(設計図)、其他本件記録一切参照)火災発火点及び原因が「大講堂東南隅角から二つ目と三つ目の柱の間の南側の蔀戸に畳六枚程(六畳半)立てかけてある畳の東側の縁(蔀戸の反対側から三枚目)に蝋を垂らして燃え易いようにし長さ二〇糎直径一糎半のローソクをその畳の縁に接着して床上に立てた」(検察官の主張する放火方法に該当する)ものとすれば、大講堂は全面的の火災となるか気象状況其他については本件記録参照の上火災発生当時の状態を前提とせられたい」に対し、「大講堂の全面的火災にまで発展することはほぼ確実と見なすことができる。大講堂外陣内部にローソクの火がゆらぐ程度の隙間風が存在していたとすれば、大講堂の全面的火災に至る可能性は著しく増大するものと考えられる」鑑定事項(六)「(1)(一)の方法で大講堂に放火したものとすれば前記安藤技術吏員作成の火災鑑識報告書記載のように畳A、Bが分離して地上に落下し、且つA、Bの畳の焼燬状態其他について、あのような相違が起きるか。(2)起きる可能性の有無の割合はどうか。(3)或はA、Bの畳が分れて落下していた事実、焼燬状態其他の相違からA、Bの畳は火災前から別々に異なつた位置に置かれてあつたものと見る方がよいか。(4)若しも床上に別々に置かれてあつたものとすればA畳の置かれてあつた状態はどうか」に対し「鑑定事項一に示される原因により出火したとしても畳がA、Bに分離して地上に落下し、且つA、Bの畳の焼燬状態について『あのような相違』は起き得る。落下位置に差の生ずる可能性の割合は、一〇〇%可能とも一〇〇%不可能とも言えない。地上五尺の高さから複雑な床組の崩壊と共に落下するのであるから落下位置に差を生じても不思議はないという程度である。また焼燬状態については、床上での燃焼の進行にすでに差があるので、差の生ずる可能性の割合は著るしく大きいと考え得る。従つてA、Bの畳は火災前から別々に異なつた位置に置かれてあつたものと断定しない方がよいと思う。」鑑定事項(七)「(1)前記安藤吏員作成の火災鑑識報告書に表れた焼燬現場状況から考え出火点は狭く右報告書にいうA畳の点と考えるのがよいか。(2)それともB畳の点或はA、B畳をふくめ広くその附近と見るのがよいか。(3)又後者のような考えをする余地はないか」に対し「前記(六)における結論と関連して、出火点はA、B畳を含め広くその附近と見るのが妥当と思う」となつている。右両者を対比すれば出火地点についてはA、B畳を含めて広くその附近なりとする後者の見解が妥当なりと思料する。

(二)次に燃焼時間について考究するに同鑑定書によれば鑑定事項(三)「前記(一)の原因によつて出火したものとすれば大講堂が火勢によつてどんどん燃焼し初める状態例えば「大講堂の東南角から正面石段にかけて約一間半、東側の方にかけて約一間程外陣の下あたりから外廊を経て外側に火が吹き出て居りました。外陣の蔀戸はまだ燃えて居らず廊下に接する面はやはり赤くなつていました」「東南隅附近の床下から赤い火がメラメラと廊下の上へ外側から這い上つているのを見ました」というような状態になるまでに要する時間((一)のローソクを床上に立てた時から)」に対し「鑑定事項(一)に示される原因によつて出火した場合、鑑定事項(三)に示されたような大講堂の焼燬状態が現出するまでには、ローソクを床上に立ててから最低二時間二十五分程度の時間を要するものと推定する。

なお事件当時大講堂外陣内部に前記一で仮定したような隙間風が存在していたとすれば床板着火までの所要時間が前項で述べたように約四十分短縮される結果として、ローソクを立ててから最低一時間四十五分程度で鑑定事項(三)に示されるような大講堂の燃焼状態が現出することも可能であると推定する」とある。第三回公判調書中証人久保正吉の供述記載によれば火災当時大講堂外陣南側の東から二本目と三本目の柱の中程に畳四枚が蔀戸下の敷居上に立てかけ同二枚半が床上より右四枚の畳にもたれかけてあつたこと検察官及び司法警察員に対する被告人の供述調書によると、被告人が当夜目を覚ましたと称する時刻は午前一時頃であること、第四回公判調書中証人辻井昭善(旧姓松岡)の供述記載によれば同人が火災現場へ駆けつけた時には「大講堂の東南角から正面石段にかけて約一間半、東側の方にかけて約一間程外陣の下あたりから外廊を経て外側に火が吹き出て居りました。外陣の蔀戸はまだ燃えて居らず廊下に接する面はやはり赤くなつていました」という状況であつたこと、被告人の検察官に対する昭31・12・6付供述調書によれば被告人が火災現場に行つた時には「東南隅附近の床下から赤い火がメラメラと廊下の上へ外側から這い上つているのを見ました」という状況にあつたこと(以上鑑定事項(三)の条件に該当する)第五回公判調書中証人田中久吉の供述記載によれば、同人が被告人から大講堂の火災を知らされた時刻を午前三時四十分頃、又前記証人辻井昭善の供述記載によると同証人が被告人から同火災を知らされた時刻を午前三時半か四十分頃とそれぞれ述べていること、被告人の検察官に対する昭31・12・6付供述調書中「須弥壇の前で蝋燭に火をつけてから畳の前へ蝋燭を立てる迄の時間は正確にはわかりませんが約五、六分ではなかつたかと思います」と述べていることがそれぞれ認められる。そこで以下被告人の捜査機関に対する自供調書に基き、被告人が本件放火を為したものと仮定して、放火のため起きた時刻(これを1とする)、点火したローソクを畳に接着して立てた時刻(これを2とする)、松岡、田中が被告人から起された時刻(これを3とする)、右両名が火災現場へ駆けつけた時刻(これを4とする)の時間的関係と鑑定事項(三)との関係を考察することとする。1の時刻に付いては被告人の自供調書には一時、一時五分前、一時五、六分前等区々であるが、ここでは起訴状記載によるとして、1は午前一時頃、前記証人辻井昭善、同田中久吉の各供述記載によれば3は同三時三十分ないし四十分、2及び4は判然としない。1と2の差をX分、3と4の差をY分とし、XとYと同数とすれば、2から4即ち放火時刻より鑑定事項(三)の条件である火災状況になるまでの時間が約二時間三十分ないし四十分要したことになり前記消防研究所鑑定書記載の所要時間二時間二十五分に、辛うじて達することになるが、被告人の検察官に対する昭31・12・25付供述調書に現われた被告人の1から2までの行動、松岡昭善の検察官に対する昭31・12・1付供述調書に現われた同人の火災当時の行動、第五回公判調書中証人田中久吉の供述記載に現われた同人の行動、大講堂出火事件実況見分調書添付図面第一図、司法巡査大橋竜吉作成の昭31・10・12付捜査復命書添付図面に現われた被告人の寝ていた山上事務所松岡昭善の寝ていた和労堂、田中久吉の寝ていた警備詰所大講堂相互の地理的関係等から考えるとXはYより大となる可能性は大きい。そうすると被告人の自供調書記載通りの方法では本件火災に発展することは時間的には多少窮屈となつてくるのである。然し前記の論は大講堂内が無風状態であるとの仮定の上であつて前記鑑定書にも記載されているとおり、事件発生当時大講堂内外陣内部にローソクの炎がゆらぐ程度の隙間風が存在していたとすれば、所要時間が約四十分短縮される結果、2から4に至る時間が一時間四十五分程度となり悠に起訴状記載の被告人の所為によつて前記松岡、田中の火災発見時の火災状況に至り得るということになる。そうすると事件当夜大講堂内外陣内部にローソクの火がゆらぐ程度の隙間風が存在していたかどうかが重要な問題となる。京福電気鉄道株式会社比叡山気象観測所技手西村直二作成の昭31・12・4付捜査関係事項照会に関する回答書中昭和三十一年十月十日午後八時から翌朝五時迄一時間毎の同観測所所在地における風速は七・三、六・九、九・四、九・四、九・四、九・四、九・四、一一・五、一二五、一一・八(単位メートル)であるが、第六回公判調書中証人生田孝憲の供述記載中検察官の「どの辺がよく燃えていたか」との問に対し「正面は全体的に燃えていました。その時風が東南の方へ吹いていましたので火が東南の方へ流れていたので東南の方がよく燃えていたように見えました」と答え、更に問「午前四時二十分頃戒壇院から大講堂の方を見た時大講堂の東南隅の方が火勢が寄つていて強く燃えていたように見えたことは間違いないか」答「風で火勢が東南の方へ流れていました」第十一回公判調書中同証人の供述記載中裁判官の「証人は前回、現場へ行つた時は風が東南の方に向つて吹いていたことを証言しているがそれは判つたか」との問に対し、答「最初に見た時は風は東南の方に吹いていました、それから東北に変り次には無風状態になり、それから又西の方に僅かに変りました」とあるが、前記観測所回答によると同観測所所在地における風の方向は十月十一日午前零時頃から同二時頃までは南々東、同三時頃から同五時頃までは南東となつており然るときは右生田証言記載は記憶違いであるのか右観測所回答と矛盾とするものの如くであるが、或は右証人が観た時期における風の方向は火災のための局部風であつたかも知れず同公判調書中証人坂本消防団副分団長前田平右ヱ門の供述記載中「その時風向を判断したか」との裁判官の問に対し、答「その時は無風状態でした」とあり何れの証言を措信すべきや、にわかに決し難い。前記消防研究所鑑定書によるとその47頁に「右観測所(前記京福電鉄比叡山気象観測所)は大講堂からほぼ南西方向に水平距離約八〇〇米、高度差約一七〇米の四明岳頂上(標高八三四・七米)に位置するものである」、41頁に「大講堂の結構規模を知るため根本中堂を見た。微細な手法に若干の相違はあるが大講堂と根本中堂は、ほぼ同時代に建立され同程度の規模を有している木造建築物だからである。根本中堂の内では構造的な図面に表現してある部分以外に施工面の微細な手法を見ることができ、漠然と頭の中に描いていた焼失前の大講堂の姿を想像するのに役立つた。根本中堂の内部を見て気の付いた重大な点は、床板の巾は約四二糎、矧は突付になつており互に密接している所が多いが一粍位多い所で五粍位の隙間の生じている所があつたことである」とあり、前記第十四回公判調書中証人生田孝憲の「大講堂外陣の床下は西側、南側、東側の三方は幅一寸位厚さ五分位の板が縦に約一寸間隔に打ちつけてあり北側即ち外陣と内陣との境は石垣になつていました。それで外陣の床下内は柱の束や土台石がある程度でその他には何もありません。風通しは十分でした」との供述記載及び前記京福電鉄会社比叡山観測所風速回答、大講堂の位置が山頂でないこと等を併せ考えると、(被告人の検察官に対する昭31・12・25付供述調書中「外陣の東の方へ行こうとしました私は右手に持つたローソクを右胸の辺りに持つて歩きましたがローソクの火がゆらいだので左手でカバーをして廊下の外側から内側へ約一間程の処を下を見ながら歩いて行つたのであります」とあるのを論外とする。論外とする理由は後記する。)火災当夜、大講堂外陣内は全然無風状態であるとは考えられないが、前記二証人の供述記載及び大講堂の位置が山頂でないこと等を考えると必らず風が吹いていたとも断言することができない。そうすると起訴状記載の被告人の行為によつて百パーセント大講堂の火災になり得ると断定することはできないと共に不可能であるともなし得ないところである。しかしこの時間的関係のみから被告人を放火犯人と断定することができないことも以下記すところで明らかである。

(三)検察官は被告人は本件審理の冒頭から放火の犯行を否認しているところであるが検察庁警察署における数回の自供調書が存在する上に、これが十分なる補強証拠が存在すると主張するので以下これについて論ずる。

(1)被告人の司法警察員並びに検察官の面前における自供に対する補強証拠について。

(イ)被告人の司法警察員並びに検察官の面前における自供中犯行自体についての補強証拠について。

(a)検察官は、被告人が昭31・11・26付検察官調書において、山上事務所と書院廊下との間の硝子戸は閉開が困難である旨述べているが、これを裏付ける如く第五回公判期日における福恵英善の「書院へ通ずる廊下へ出る硝子戸は車がいたんでいたので開けにくかつた」旨証言があるから硝子戸が開けにくかつたことが、被告人の右自供を補強するものであると主張する。右検察官調書及び公判調書にそれぞれその主張通りの記載があり又司法警察員松井雪雄作成の比叡山延暦寺山上事務所検証調書には「この廊下の外に更に二枚の硝子戸がはまつている。この硝子戸の敷居には金製のレールが打つてありレールの上をすべる様硝子戸に戸車がつけてあるが戸車がいたんでいたのが、二枚とも非常に開けにくく開けるときガタガタと音がして開けにくかつた」との記載により右の硝子戸が故障していたことは認められる。然しながら本件に於ては、後にも述べる如く開けにくいことが予め捜査官に知れていたのであるから、尋問の仕方によつてはこの点に符合するような供述を誘導的に得ることも可能なのである。従つてこの点は補強証拠としては弱いものといわざるを得ない。

(b)検察官は坊城道澄が山上事務所に宿泊し、福恵英善が同事務所受付部屋から尺八を持ち帰つたこと、その際山上事務所と書院に通ずる廊下との間の硝子戸が開いていたことは第五回公判期日における坊城、福恵の供述記載によつて明らかであるが、これは被告人が右の証言事実の通り自供していることの補強証拠であると主張する。この点についても前項に述べたところと同じ結論になるのであつて坊城が山上事務所に泊り、廊下の硝子戸が開いていたことも坊城証言の通りと思料されるが後述する如く坊城が山上事務所へ来たこと、廊下の硝子が開いていたことが自供前に捜査官に知れていたことは前記(a)と同じである。従つてこの点も右(a)と同じ理由により補強証拠として弱いものというほかない。

(c)検察官は大講堂内陣須弥壇前附近及び外陣正面扉附近に賽銭箱がそれぞれありその中に賽銭があつたのであるからこれは被告人が当夜それらの賽銭を盗んだと自供しているのに対する補強証拠であると主張する。大講堂内に検察官主張のような賽銭箱のあつたことは第四回公判調書中証人勝山忠円、第三回公判調書中証人徳江宏正の各供述記載、吉田徳治郎の昭31・12・1付警察調書によつて明らかである。右勝山忠円の証言記載中「昭和三十一年十月十日大講堂の当番を終つてから参拝人は十五人位あつたように思う。須弥壇前の賽銭箱の賽銭は三十一年九月頃から集めていない。普通一週間乃至十日に一度位開けているが賽銭は平均二〇〇円程度であつた」とあり又石井晋に対する岐阜県垂井警察署佐伯巡査部長作成の昭31・10・31付供述調書によると、石井晋外五名は同日(火災の前日)午後四時五十分頃阿弥陀堂におけるお経供養を終え大講堂に参拝した旨の記載のあることは検察官の主張通りである。そこで先ず火災当夜大講堂内の二つの賽銭箱に賽銭があつたかどうか検討しよう。須弥壇前の賽銭箱は右勝山忠円の供述記載によれば一週間乃至十日に一回賽銭を集め賽銭の額は一回二百円程度で、火災前は九月末頃集めているから、その後誰かが集めるか、何人かに盗まれるかしない限りは火災当夜該賽銭箱には何程かの賽銭があつたことになるのであるが、同記載によると、賽銭を集めるのは、同人の外には徳江一人があり、右徳江の第三回供述記載中「内陣(須弥壇前)の賽銭箱は五日乃至一週間に一回位さらえております」とあるが、同人が右九月末頃から火災前日までの約十日間に須弥壇前賽銭箱から賽銭を集めた旨の記載はない。そこで右徳江の供述記載通りとすればその間同人が集めたことになるのであつて該賽銭箱に火災当夜賽銭があつた可能性もあるががまた反対に絶対に存在したとも断言できないのである。外陣正面の賽銭箱については右勝山の供述記載には「火災前日外陣の賽銭箱の賽銭は午後四時頃さらえた。さらえた賽銭を山上事務所へ持つていつてから参拝人は十五人位であつたと思います」とあるが、更にそれに引続いて「大講堂附近にいたことは記憶しております。それで拝んだ人もあると思います」「後から来た参拝人があるか判りません」とあり、又徳江の証言記載中「五時三十分頃参拝人が来ましたが大講堂の石段を上つたかどうかは見ておりませんので判りません」といずれも漠然としているのである。検察官は石井晋外五名が阿弥陀堂におけるお経供養を終え大講堂に参拝したと供述しているので、参拝人中現実に大講堂外陣正面附近賽銭箱に何人がいくら賽銭を入れたか分明ではないが約十五人中数名が賽銭を投入れたであろうことは容易に推察し得るところである。特に右石井晋外五名は態々岐阜県から比叡山延暦寺に参詣し阿弥陀堂でお経供養までしてもらい当夜は宿院で宿泊している信仰に厚い人であることが窺われるから恐らく該賽銭箱に賽銭を入れたことは推認に難くないところであると主張するが前記十五人程の参拝人については賽銭を投入したか否か証拠が漠然としていて、殊に検察官は賽銭を投げ入れたであろうことは容易に推察できると主張するがこれを推察する根拠は甚だ薄弱である。又石井晋外五名については前記石井晋の供述調書には「そのお経供養をおえて宿坊に戻ろうとしましたが、途中にその翌朝焼けた大講堂へ立ち寄りその大きな建物を観賞かたがたお詣りをしたのです。この時この内部へは這入らずにその大講堂の正面にある賽銭箱の前でお詣りをしたのです。その際私等の六人連れ全部が同じ場所でお詣りをしたと記憶しています」との記載があるが、賽銭を投入した旨の記載はない。検察官は石井晋等は岐阜県から来てお経供養までしてもらうような信仰に厚い人だというが右石井晋の供述調書にも観賞かたがたお詣りをしたとの記載があり、殊に外陣内部に自由にはいることができることができるに拘らず外陣外側でお詣りをしたぐらいで阿弥陀堂でお経供養をしたからといつて、その時大講堂へ賽銭をあげたとは断定できずかえつて、お経供養などをして幾許かまとまつたお供えをしたものは各御堂毎に賽銭をあげないのが普通ではあるまいか、尚被告人の自供調書に当夜外陣賽銭箱の下から十円硬貨で五十円盗んだとあるから五十円の賽銭が中にはいつていたと主張するが後述する如く自供そのものの効力が疑問なのである。

(d)検察官は被告人の自供によれば同人が放火の直前大講堂外陣正面扉附近の賽銭箱を押して賽銭箱の下から賽銭を盗むとき同人の肩が正面扉裏の閂の「コ」の字型のところにあたつたので閂棒を押して扉を大講堂の内側より閉める操作をしたと謂うのであるがこれを裏附ける如く正面扉の閂(証第三号)が戸締された状態で発見されたのであるからその状態を示す証第三号の存在は有力な補強証拠であると主張する。

検察官は大講堂出火事件実況見分調書並びに添付写真第五十図五十一図押収に係る閂錠(証第三号)の存在によつて該閂錠が閂棒の差込まれた状態で発見され従つて大講堂正面扉は火災前戸締された状態にあつたというのであるがこれについては後に述べる。

検察官は第十一回公判期日における生田孝憲の「証第三号(大講堂の正面扉の閂錠)は左から右へ差込みます。非常に軽いから少し押せば入ります。これは差込んでありますから締つている状態です」との証言、第十四回公判期日における川副順一郎の「正面扉の閂は差込んであつたと確信してもよいという状態であつた。閂は柱と柱との中心に落ちていたから閂が締るような傾き方をして倒れたようには思わない。閂はゆるかつたということを頭に入れながら実況見分したが、やはり最初から閂はかかつていたのだろうと思つた。その確信の程度は閂はゆるいのにこの状態で発見されたのであるからかかつてあつたものと推定した」との供述記載を以て右閂錠がかかつていた証拠とできると主張するが右二供述記載はいずれも二証人が、かかつていたと思つたというに過ぎずそのように判断した根拠については甚だ瞹昧であるといわねばならぬ。検察官は更に第十四回公判調書中生田孝憲が「正面の扉は内側へ倒れていて両方の扉の金具が内側に行くに従つて八の字型に若干開いていた様に思う。閂のついてあるところでは両方の扉の金具と金具との間が三尺位離れていた様に思う。証拠品のようには重なつていなかつたように思う。閂は内側から見て右側の扉についていたと思うそれで閂をさし込むときは右から左へ押すようになつていたと思う」旨、小堀光詮も「閂は内側から見て右から左へ差込むようになつていた」旨の供述記載があるが誉田玄昭の証言記載並びに同人の持参した昭和二十二年十月大講堂で催された法華大会記念写真によつて見ると閂は内側から向つて左から右に差込むようになつている状況が判るから生田、小堀の閂の差込方向に関する前記証言はいずれも不確かであり、且つ生田孝憲は大講堂消失後の検証の際警察官等がその閂を作為的にかかつた状態に置くようにした様にも看られる証言をしているのであるが、安藤技術吏員には閂のこの状態であれば閂はかかつていたのではないかと説明しながら法廷においては「少し離れていたし閂は簡単に軽く差し込んだり抜いたり出来たので火事前に差込んであつたものとは断言できない」と供述して第十一回公判期日における証言と違つた供述をする。昭和三十二年十一月六日大津市民病院において行われた証人久保正吉の「扉が倒れる時扉が傾いて閂が自然にかかる程度のゆるさでなかつた」旨供述しているのとも相反すると主張する。

なるほど第十六回公判調書中証人誉田玄昭の供述記載及火災以前の大講堂正面閂錠の写真(証第二十七号)によれば大講堂正面扉の閂は内側からみて左から右に差込むように東側の扉についていたことは認められるけれども、その点において生田、小堀の証言が誤つているからというてその他の部分についての証言が措信できないとの結論は早計に過ぐといわなければならない。殊に第十一回公判調書中の生田の供述記載を措信し第十四回公判調書中の同人の供述記載を措信できないとするのはその説明に苦しまざるを得ない。右第十四回公判調書の証人生田の供述記載中に「閂を見た時私は安藤技官にこの状態であれば或は閂はかかつていたのではないでしようかと云つたことがあります」とあるのは火災現場で答えた事実を証言しているのであり同供述記載中「少し離れていましたし、閂は簡単に軽く差し込んだり抜いたり出来ましたので火事前に差込んであつたものとは断言できません」とあるのは第十四回公判廷において更めて閂について判断しているのであつて、かかる相違はあり得ることであり、事件当時の判断が必ずしも正しいとは言い切れない。昭和三十二年十一月六日大津市民病院における久保正吉の証人尋問調書に「扉が傾いて自然に閂がかかるというようなことはなかつたか」との検察官の問に対し「傾いて閂がかかるほどゆるいことはありませんでした」と答えているが、自然に閂が傾いてかかるという問はあくまでも仮定であり同証人の答は推察上のものであり且当時同証人は動脈硬化症(精神神経症)胃潰瘍高色素性貧血症で衰弱甚しく、その証言の正確さは期待できない。以上大講堂正面の閂が火災前にかかつていたものか否かについては証言のみによつてはいずれとも決し難い。そこで以下閂そのものについて検討して見るが閂そのものについての物的証拠としては火災前のものとしては写真七枚(証第二十七号)、火災後のものとしては焼跡から発見された閂錠(証第三号)、大講堂出火事件実況見分調書添付写真50図51図、延暦寺大講堂火災原因鑑識報告書添付写真No.26Bがある、右実況見分調書添付写真、鑑識報告書添付写真はいずれも閂の同一の状態を角度を変えて撮影したものと考えられ証拠品たる閂錠(証第三号)の形態もほぼこれ等と同一と認められる。(ただ後記するように実況見分調書添付写真50図51図安藤技術吏員の延暦寺大講堂火災原因鑑識報告書添付写真No.26Bには四個の留金と土台金具の接触点には、いずれも座金が存在するが証第三号(閂錠)(別紙図一)のC留金の接触点に当る個所には座金が存在しない。)然らば証第三号(閂錠)の形態は火災後自然のままの形態であるか又は焼跡において何人かにより人為的に変形せられたものであるのか。火災後の捜査官及び消防関係者等の実況見分の際延暦寺側の唯一の立入許容者である証人生田孝憲の第十四回公判調書中に「私は安藤技官や衣斐さん等と一緒に歩いていたとき私が発見し、これが正面扉の閂ですと云つた記憶がありますその時川副さんは鐘楼寄りの方におられたと思います。写真は少しなぶつてから撮られたと思います」「正面扉の閂があつた附近にはまた沢山「オキ」が溜つていたのでそれを消すためになぶつていた人があります。検証していた人はなぶつておられません」とあり大講堂出火事件実況見分調書中「安藤、中西技官、川島、松田部長を補助者として本職が外陣中心部に立ち見分を進めて行くと先ず松田部長が正面扉の錠前らしきものを発見したのでこれを見分するに、正面入口の東側の柱の中心から北西に約八・五尺の処で南側基礎より約四・二尺内方に正面扉の貫抜錠が扉の金具についた儘一個落ちていた。

その状況を撮影したのが現場写真第五十、五十一図である。落ちている状態は鉄製貫抜の棒が西側で受けの掛金が東側になつて居り長さ約一・五尺の貫抜棒が約九寸掛金の方に突出て居り且つこの棒がやや曲つて居り一方の先が割れ掛金が強く曲つていたことからこの貫抜錠は火災前に施錠されていたと認めるのが妥当であると思料された。この貫抜錠(証第三号)は立会人生田孝憲の任意提出により領置した」との記載があり右証人生田の供述記載と実況見分調書とを比較検討すると実況見分の際閂錠を、最初に発見したのは松田部長であると推認されるが前記生田供述記載によつても窺われるように、右松田部長に発見される以前に右閂は不用意に消火従事員等によつて人為的力が加えられていなかつたか又発見後右火災後写真の撮影までに何等かの変更が加えられなかつたかの疑問はしばらく措くとして右閂錠(証第三号)を詳細に観察しよう。検察官の主張は右閂棒が曲つているのは、火災前該閂棒は(別紙図一)B及びEのとめ金にはまつていた換言すれば大講堂正面扉は戸締された状態にあつたもので、火災により焼け落ちる際閂棒がこじられて曲り、且左端(別紙略図(一)M点)は二つに裂けたというが前記証人誉田玄昭の供述記載火災前の大講堂の扉の写真(証第二十七号特にNo.3 No.4 No.5 No.7)よると右閂棒は火災前より既に曲つていたのではないかと疑われるに十分であり、左端M点の裂けている点は、もともと右閂棒はM点よりO点まで二つに分れ中は抜け通つた溝(A)になつていて左端M点において僅かに接着していたのであるから火熱のみによつても二つに裂け得ることも考えられる。又四個の留金C、D及びB、Eは二個宛両扉に取附けられていたものであるが前記のようにD、B、Eの留金の下には楕円形の座金が存在するのに、Cの留金に限り座金が存在しない、右実況見分調書添付写真50図51図安藤技術吏員の延暦寺大講堂火災原因鑑識報告書添付写真No.26Bには確に該座金が存在しているのに証第三号(閂錠)の該当場所にはそれが存在しないことは、当時右実況見分並に鑑識写真撮影後、何等かの事由によりC留金が土台金具から抜け落ち、その際共に離脱した座金が遺忘されたまま、C留金のみ、何人かによつて土台金具に復元されたものと推察される。そうすると右C留金が抜け落ち或は復元の際、閂棒が移動したことは容易に想像されるところであるから、少くとも、火災直後の閂棒のC、D留金より、ずり出ていたか否かの状態を判断する限りにおいては、証第三号(閂錠)の閂棒の現存状態を以てすることは厳密さを欠くことになろう。更に留金Bを観るとその土台金具の表面裏面において共に別紙図(一)Bの断面図の如くいびつになつていて殊に留金の足は裏面に於て殆んど土台金具に平行といわんばかりに曲つているのであつて、これは扉の倒れると同時か或はその後に留金の上部に重い物が落ちその圧力によつて右留金が変形したものと考えられ、このことは留金Bの附属している土台金具がQ点において急激に折れ曲つていること又右実況見分調書添付図面51図にも現われている如く閂錠附近に接着して木材の倒れていること、留金B、Eの存する位置がくぼんでいること、閂棒がくぼ地を先端として傾いていること火勢の強かつたこと等を併せ考えると該閂棒はその時ずり出たものとも思われるのである。同留金に閂棒がささつていて扉の倒れるときに留金がこじられていびつになつたものと考えると、土台金具の裏面における同留金の足の甚しい変形は説明困難となるのではあるまいか。上述したように大講堂正面扉の閂錠が火災前より差込まれていた換言すれば、扉は閂によつて戸締された状態にあつたと断定することは甚だ躊躇するところである。もし円が火災前に閉められていたのではないということになると賽銭を盗むときに肩に障つたから差込んだという被告人の自供は虚偽の供述となるばかりでなく引いては自供全体の信憑性を覆えすことにもなるであろう。

(e)検察官は被告人の自供に基く放火地点に被告人の供述するように畳の焼失したものが発見されているからそのことが被告人の自供の補強証拠であると主張する。被告人の自供する通り大講堂東南部蔀戸のあつた附近から畳の焼失したものが発見されたことは大講堂出火事件実況見分調書並びに添付図面によつて明らかであり火災前該場所に久保正吉が畳を置いたことは第三回公判期日における証人久保正吉の「昭和三十一年九月二十三日大講堂で寿屋の鳥居さんの法要があり、その後始末をしたが、坊さん等の坐る畳が六枚半あつたので、それを大講堂の東南部蔀戸のところに横に立てかけておいた。十月五日に根本中堂で法要があるので上敷をそこへ取りに行つたが、その時にも畳はその場所にあつた」旨供述記載のあることは検察官主張の通りである。被告人の公判廷における弁解は捜査官の誘導、心理的強制によつて止むなく放火を自供するに至つたもので、焼跡から畳の発見されたことを取調前に耳にしていたから一旦為した自供を信憑力あらしめるため畳に点火したと述べたというのである。而して安藤鑑識報告書、大講堂出火事件実況見分調書、当時本件火災について新聞で宣伝されたこと等によつても被告人が出火地点が畳の存在した位置であることを知つていたものと推認され被告人の自供の任意性信憑性に疑う点が存在するや否やは後記するところであるが、疑う点が存在することになれば右の点は補強証拠として何等意味のないものといわねばならない。

(f)検察官は被告人は大講堂に放火後、山上事務所に引きあげる途中西出入口の鍵を置いて来るのを忘れたのを思い出し鐘楼附近へ捨てたと自供しているが、その自供に副う如くその場所から西出入口の鍵が発見され現に押収されていることは自供を裏付ける補強証拠であると主張する。これに対し被告人の弁解は第十二回公判調書中被告人の供述記載によれば火災のあつた早暁、現場へかけつけ松岡と共に鐘台のところで防火活動に従事していたところ松岡が「本尊さんでも出せんか」といつたので、西入口まで行き、その附近の蔀部の下に置いてある西入口の鍵を手にして西入口を開けようとしたが、火が廻つている駄目だつたのでその鍵を持つた儘鐘楼附近に戻り消火するのに邪魔になるので鍵を鐘楼附近へ捨てたというにある。第六回公判調書の証人生田孝憲の「十二日か十三日に野上という大工が発見しました。その鍵は鐘楼の西北隅の柱の礎石のところにありました。それはそこへ置いたという感じのように受けとれました。それでそのことを直ぐに警察へ電話し私は小畑に西出入口扉の鍵を何処へ置いたかと尋ねると、同人は暫く考え込んで思い出した様に火事の時西出入口を開けに行つたが煙で開らけれなかつたので鍵を持つた儘消火の手伝いに行き鍵が邪魔になつたので鐘楼の方へ置いたと云つていました。そして置いたという地点から鍵が出て来ましたので別に不審な点はありません」との供述記載、生田孝憲の検察官に対する昭31・12・4付供述調書の「該鍵が発見された状態は鐘台の西北隅の柱の礎石の上に内陣の入口の鍵が乗つていました。鍵の握りが西側で先が東側に向くように横に乗つていた。鍵の上は小さなからけし屑が被つていた。確かその翌日頃警察の方が来て写真を撮つた」旨の記載及びこれに照応する検証調書添附写真一〇七、一〇八、一〇九及び大講堂西入口の鍵(証第一号)の存在から考察すると大講堂西入口の鍵が鐘台の西北隅柱の礎石の上に乗つていた事実は疑う余地はない。鐘台の西北隅の柱といえば昼間人通りの多い箇所であり、該鍵の大きさ(長さ三十三糎)からして容易に発見されるところである。大講堂放火という重大犯罪を犯した被告人がその嫌疑のかかることを恐れ証拠湮滅をはかりその証拠品を捨てるのに日常自己が特に地理に詳しく、人目につき易いことを熟知している箇所を何を好んで選ぶであろうか。また、前記証言記載によると発見された当時鍵の上にからけし屑が乗つていたとなつているが、これは被告人が礎石の上へすてた後鐘楼が焼燬し且つその後誰の手によつても移動されていないことを知ることができるのである。そうすると人目に着きやすい礎石の上に鍵があつたということは、まさに前記証言に置いたという感じというに符合して被告人の弁解を裏付けるものではあるまいか。けだし、証拠湮滅のため無闇に捨てたものが礎石の上に乗るということは礎石の平面積及び鍵の大きさからして稀有の事だからである。松岡昭善の検察官に対する昭31・12・1付供述調書には「松岡が被告人に大講堂の本尊さんを救い出すことはできないだろうかというと、被告人は西の方へ廻つて行つてやがて松岡のところへ帰つてきた」旨、松岡自身が「大講堂の鍵が鐘楼附近から発見されたのだと思つた」旨の記載があり、第四回公判調書中の辻井(松岡)昭善の供述記載及び右供述調書中にも松岡が被告人に該鍵のことを尋ねたところ「あんたから本尊でも出せんかと云われたので、大講堂の西出入口へ行つて入口附近に隠してあつた鍵で扉を開けようとしたがすでに煙が出ていたのでその鍵を持つた儘引返して来て途中鐘楼附近へ置いたと答えた」旨の記載があり、山上では被告人と松岡とは最も親しい仲であり鍵に関しては、火災当日松岡と行動を共にしていた時のことであるから同人から鍵について質問された時には被告人として、いつわりは云い難い関係にある筈であるが松岡に前記のように答えていること等を併せ考えると被告人の弁解は真実なりとしなければならない。

(g)検察官は坊城道澄が大講堂の出火を知り被告人を起した後、被告人が山上事務所の受付の部屋に這入つたことは第五回公判期日における同人の証言と、同人に対する検察官調書によつて明らかである。これは被告人の自供するように前夜大講堂放火の際須弥壇前の賽銭箱と正面扉内側の賽銭箱から賽銭を盗み財布に入れていたものとを、消火の際紛失を恐れて同受付部屋の机の抽斗に納めたことを裏付けるものであると主張する。この点に関し第五回公判調書中証人坊城道澄の供述記載中検察官の「小畑(被告人)に山上に泊つている人を起して現場へ行けと云つた時小畑は何処にいたか」との問に対し「玄関にいました」と答え「その時小畑は受付の部屋から出て来たことはないか」との問に対し「見た記憶はありません。廊下で会つたかも知れません」と答え更に「証人は検事の調べの時には『十月十五日頃大津署で取調べを受け小畑と一緒に自動車で帰る途中、その日私は警察で私が出火発見の際電話室に行つて消防に出火を報告しようとした時に応接間の前附近で小畑が受付から出て来たと申し上げたことで大分細かく調べられましたので、自動車の中で小畑にあの時はたしか君は受付から出て来たなあというと、同人は鍵を取りに入つたんだと申していました』と述べているがどうか」との問に対し「その様な話をした記憶はありますが、現実に受付から出てくるのを見たかどうかはつきりしません」と答え、又被告人の「私は証人に起されて一緒に事務所の窓際へ行き大講堂の方を見てそれから証人(坊城)が電話をかけに行く時私も一緒に玄関までついて行き、玄関のところで証人が私に松岡や田中を起して現場へ行けと云われたので、玄関から出て行つたのであると思うがそうでなかつたか」との問に対し同証人は「そうであつたかも知れません」と答えている。そうすると被告人が事務室から出て来たということは甚だ曖昧であり、又火災発見の直後であつて気も顛倒している時期において、何人も他人の行動に関する詳細明確な記憶が残る筈がないのであるからかかる証言によつて検察官主張の如き事実を認めることは困難である。

(h)検察官は被告人が消火作業後ズボンのポケツトに入れて置いた本件放火に使用したマツチを山上事務所と書院との間の空地に捨てた旨自供しているがそれに照応する如くマツチ(証第二十四号)が発見されたから該マツチの存在は被告人の本件放火を裏付けるものであると主張する。司法警察員松井雪雄作成の昭31・12・2付実況見分調書に「山上事務所より書院に通ずる廻廊の曲り角の東南に積まれてある鉄屑を取除き、同所東側にある水槽のあたりまで落葉や、ごもくをたんねんに前記立会人(久保正吉)と共に見分したところ、廻廊の曲り角の南側約一米位の地点に小さい一本の木のわきに杉の落葉やはきだめのごもくや土の下に東海道五十三次絵入り煙草マツチ一個を清水政次郎が発見したので見分したところ、右マツチは東海道五十三次の中品川の絵入り煙草マツチで発見時絵の方が上になつてその絵の上に土が附着してふまれた様に全体が「ヘコン」でいた。中味を調べたところ赤い火薬附の軸が八本入つていたが内一本は半分位に折れた軸であつた」「発見位置の稍々南東側に水槽があり水槽と廻廊との間はごもくをすてるのか煙草の光やフイルムの空箱等が落葉やごもくの下に落ちていた」旨の記載及び該マツチ(証第二十四号)の存在によつて右調書記載の場所より該マツチが発見されたことは疑う余地がない。第三回公判調書中証人久保正吉の「十二月二日午後二時頃警察官が山上事務所の裏の方を見るから立会つてくれと云われましたので、手伝いましたところ、私が十月十八日に外の掃除をした塵を集めて山上事務所の裏の馬酔木の附近においておきましたその中から旅行用マツチが一箱出て来ました」「昭和三十一年十一月十五日付山上事務所検証調書添付図面の至書院と書いてある廊下の南側に馬酔木があります。その木の附近に焼跡の掃除をして掃き集めておいた塵の中から出て来ました」との供述記載によれば該マツチ(証第二十四号)は「外の掃除」「焼跡の掃除」をして掃きめておいた塵の中から出て来たのでありこれが捜査官の主張するように被告人が捨てたと自供した場所から出て来たと云えるであろうか。実況見分に当つた責任者たる証人松井雪雄の昭32・2・21付証人尋問調書にも同人自身「之が放火に使つたマツチとは断言できませんと述べている、被告人が日頃喫煙することは被告人自らも認めているところである。今井宗一郎の昭31・11・15付、吉田富美枝の昭31・11・15付各警察調書によれば同人等はそれぞれ被告人に対し東海道五十三次絵入りマツチ一個を同年八月末か九月初頃に又一個は八月頃に被告人に与えていることが認められるし、昭和三十一年十一月十五日山上事務所検証調書には「玄関に向つて左側の受付室は八畳敷の畳の間で表に向つて座り机が二つ並んで置いてあり、立会人福恵英善の説明で表に向つて左側が常時小畑泰隆が便宜上使用し、右側は立会人福恵英善が使用していることが判明した。小畑の机の抽斗を見分したところ机に向つて右側の抽斗には坂福と書かれた広告宣伝マツチが一個、二人連れ若い女の写真一枚、肥後の守のナイフ、祈祷申込書、万年筆一本、英文の研究が乱雑に入つていた。左側の抽斗には喫茶ブルバードの広告宣伝マツチ一個、鳥本真寿美、白石貞子からの封書通信二通及び小畑が白石貞子宛封書通信一通、本人の写真、鋏、色鉛筆一、紙箱一、中味は金製表面ワニ皮模様の煙草ケース一個、メモ帳等がこれも乱雑に入れてあつた。小畑の机の左側に本立がありその本立は二つに区切られその区切られた一番手前の処に稍々大型の東海道五十三次戸塚絵入り(切手箱と墨で書かれてあつた)煙草マツチ一個が置いてあり、その本立と受付室表硝子戸の敷居の下部の壁との間の隅に白色綿製紐及び焼跡から持ち帰つたと思われる重さ三百匁位の銅塊一個、野球ボール一個及び東海道五十三次由井絵入り煙草マツチ一個が引かれてあつたカーテンの裾に隠しておいた様な恰好で置かれてあつた。この四個のマツチの中味を検分したところ銅塊、野球ボール、綿紐と共に置かれてあつた東海道五十三次絵入りマツチのみ中味は軸が十七本(火薬うすもも色)入つていたが両抽斗の中に入つていた二個及び本立に置いてあつたマツチ一個計三個は空であつた。小畑の机と本立の中間に長さ七、八寸位高さ一尺位の小机の様なものが置いてあり、其の下に竹で組まれた紙屑入れがありその中に煙草(光いこい)の空箱や罫紙に書かれた手紙の反古等が入れていた」との記載より考察するに坂福、ブルバードのレツテルのあるマツチはいずれも飲食店あるいは喫茶店の広告用マツチであるから被告人としては空箱を保存するつもりであつたのだろうし、大型で表に切手箱と墨書してあるものは表書通りの使用に充るものであり、唯カーテンの裾のところにあつた東海道五十三次のマツチのみ中味の軸木十七本はいつていたのであるが、福恵英善の昭31・11・17付警察調書には該マツチについて同人は「私は煙草を喫わないし、私のものではないことは確かで、久保か小畑が煙草を喫うので両名のものではないかと思いますが、久保は十月二十四日から休んでいるし小畑君の本立の近くから発見されたので小畑君のものでなかつたかと思います」とあることからしても被告人の物と推察される。しかもそれがあつた位置及び存在した周囲の状況からして不要として放棄されていたものと思われる。然かもその中に十七本の軸木の存在していたことは、検察官が馬酔木の根元、ごみ捨場所より発見されたマツチ(証第二十四号)に軸木八本在中することを以て異常の場合なりとし被告人の犯行を裏付けるものなりとすることの根拠薄弱なることを立証するであろうし、前記のような乱雑な部屋を被告人が日々掃除をした上そのゴミを山上事務所裏へ掃き捨てることもあるであろうし山上勤務者、宿直員等が直接抛棄することも考えられ軸木八本が在中するからといつてそれ等の者が捨てることがないと云い切ることもできないであろう。前記山上事務所裏実況見分の結果、馬酔木の附近から発見されたマツチ(証第二十四号)の在中軸木の本数と被告人の自供調書との関係を一瞥しよう。被告人の昭31・11・22付警察調書には「ポケツトの中に入つているのを確めましたので出して軸も確かめて見ると暗がりでしたが十本程あるのを確かめました」更に昭31・11・29付警察調書には「その時に持つたマツチはタバコ用の小型のマツチで東海道五十三次の絵の書いたものでした。軸は七、八本位あつたことを確かめました」とあり、昭和三十一年十二月二日実施された山上事務所裏実況見分の結果馬酔木の附近から発見されたマツチ(証第二十四号)は中に軸木八本存在したのに符合する。尤も被告人は昭31・12・4付警察調書において「只今御示し下さいました「マツチ」のように川の絵の書いたマツチであることには間違いありませんが、私もその「マツチ」の絵を充分に見たわけではありませんので捨てた「マツチ」がこの「マツチ」であるかどうかは、はつきりと申し上げることはできません。軸木も約十本程ありましたからその十本のうち三本を使いましたので残つているのは七、八本だと思います」とあつて当時被告人は犯行を認めていながら、該マツチについては放火に使用したものとは認めていない。右実況見分以前に被告人が軸木十本ほど或は七、八本と自供したこと現実に発見されたマツチに軸木八本存在したことはいかにも被告人の自供に信憑性を与えるものと考えられるかも知れないが詳細に考えるとき、消燈後の闇の中でマツチ軸木の本数を突嗟に正確に知ることは困難で、又右供述も一回目(昭31・11・22付警察調書では十本程)と二回目(昭31・11・29付警察調書では七、八本位)では多少異なつており、且つ十という数字は、深く考えず根拠なしに云うときには出易い数字である等を思うときこの符合も、さして重大視するには当らない。符合という点を強調すれば被告人の昭31・11・16付警察調書に「私が「ローソク」に点火するのに使いました燐寸は(中略)ズボンの右ポケツトに入れておいたのですが後日受付の私の机の南側で現在各お堂の鍵の掛けてある下に本立がありそこに紙屑入箱があつたものですからその紙屑入箱に棄てるつもりで投げましたがその箱の中に入つたかどうかは確かめていないので或は入らずに窓際の隅の方に落ちたかも判りませんし又棄てた燐寸の中に軸木が何本入つていたかどうかは判りません」とあるに符合して、昭和三十一年十一月十五日付山上事務所検証調書によれば右供述調書に投げた箇所から東海道五十三次の絵の書いてあるマツチが発見されているのである。果してそうだとすれば検察官は被告人が放火に使用したマツチを何れなりとするのか。

(i)検察官は被告人の自供に基く本件放火に使用したローソクと同種ローソクが山上事務所の押入の中にありそれが領置され存在する(証第六号)からこれが補強証拠なりと主張する。福恵英善の昭31・12・3付検察調書には「山上事務所の私達が居る受付の部屋の北側押入の東隅に火事前まで和箪笥が置いてあり、その上から二ツ目か三ツ目のローソク、線香入れと書いた貼紙のある抽斗の中に西洋ローソクが太いのと細いのとを何本か知りませんが常時保管して居り、押入に施錠がないのでこれはいつでも出せました。この細いローソクはお堂の中のローソク立の前の箱に入れて一般参拝者のお灯明用に使つていました。太いのは長さ約二十センチ太さ約一・二センチ直径のものでこれは法事があつた時だけ仏さんの前に立てることになつていました」とあり、昭31・11・15付山上事務所検証調書中「その押入は四枚の襖がはまつていて押入れに向つて右隅に五段の抽斗のついている高さ三尺横六尺位のタンス風のものが置かれてあり、上より三段目に紙に墨でローソク線香入れと書かれてあつたが四段目は抽斗が無かつた。三段目のローソク線香入れと書かれてあつた抽斗の中には十六丁百二十匁と書かれてあるローソクの紙箱の中に西洋ローソク十五本(長さ十九糎直径一・五糎)が入つていた他、同様大きさの西洋ローソクがバラで三本、三匁西洋ローソク二本がバラで入つていた。(中略)右ローソクは捜索差押許可状により押収した」(右検証調書添付写真28 29参照)との記載と右押収されたローソク(証第六号)の存在によつて検察官主張のローソクがその箇所に存在したことは明らかである。第三回公判調書中久保正吉の供述記載には「長いローソク(証第六号)は法要の時に使う山下事務所(滋賀院とも云う)から一箱か二箱宛貰つて来て山上事務所受付押入内の箪笥の抽斗に入れてある旨、今井常玄の昭31・11・21付警察調書には山上の各堂に使われる線香やローソク等の香具類は私が業者から買入れまして要求のあつた都度山上事務所へ持たしてやつております」との記載によつて右ローソクが山上事務所押入箪笥の抽斗に常時存置していたことが認められ、被告人は山上事務所に給仕として日夜起居していたのであるから該ローソクのあつたこと並に置場所等を同人が熟知していても当然であつて、何等不思議はなく後記する如く被告人の自供が誘導的尋問によつて為されたものとすれば右ローソクが山上事務所に存在することは何の補強ともならない。

(j)検察官は被告人の自供に基く本件放火行為が鑑定結果により科学的に合理的に裏付けられていると主張する。

鑑定結果について一部は前記したとおりであり、尚その余のことについては後記する。

(ロ)次に被告人の司法警察員並びに検察官面前における自供中動機についての補強証拠について。

(a)検察官は被告人が昭和三十年十月頃延暦寺山上事務所に給仕として就職し、昭和三十一年六月頃から山上事務所で寝泊りすることを命ぜられて大講堂根本中堂等の御堂の扉の開閉、山上事務所の雑役をしていたことが、被告人が大講堂、根本中堂の開閉がいやだからとか、事務所の掃除その他について上役から小言をいわれたから遂に大講堂に放火を決意するに至つたという動機を補強するものなりと主張する。被告人の当公廷における供述並びに当時の庶務幹事小堀光詮、山上事務所主任福恵英善等の証言によれば被告人が山上事務所に勤務し検察官主張のような仕事に従事していたことは明らかであるがここに検察官の云うが如きことが本件の動機になつたか否かは後述する。

(b)検察官は被告人が小堀光詮、福恵英善よりよく叱れていたことについては、第四回公判期日における小堀光詮の「山上事務所で小畑に机が汚いとか、便所玄関等が汚い時には掃除をせよと命じたことがある、又小畑に女関係の噂があるので深入せんようにと注意したことがある」旨の証言、第五回公判期日における福恵英善の「小畑は積極的に仕事をする方ではない。掃除をしても汚なかつたのでもつときれいにせよとか、もつと掃除せよと何回も云つた。それは普通より少し強い目に云つた。又余り遊んでばかりいずにたまには仕事位せよと云つたことがある。小畑は物事を丁寧に整理する方ではない」旨の証言、同公判期日における即真尊{雨領}の「小畑が山上事務所に寝泊りするようになつてから生田や小堀、福恵主任からよく叱られたことを二、三回聞いた。昭和三十一年九月か十月の大講堂出火の前項小畑が福恵から仕事もせずキヤツチボールばかりしているといつて叱られたと云つていたのを聞いている」旨の証言、同公判期日における坊城道澄の「小畑は福恵のことをうるさいやつだと云つているのを聞いたことがある」旨の証言、齊川観順に対する昭和三十一年十二月四日付検事調書に「小畑から漫画の本を読んでいて小堀庶務幹事から叱られたと聞いたことがあり、又同人から同人が宿院の階段のところで鳥本美那子と話をしているところを小堀に発見され叱られて参つたと打開けられたことがある」旨の記載、生田孝憲に対する同年十二月四日付検事調書に「山上事務所で小畑が大きくラジオを鳴らすので参拝客のことを考えて小さくしろと叱つたことが何度もあつた。又同人が参拝者がいるのにキヤツチボールをするので止めさせた」旨の供述記載があると主張するが右検察官指摘通りの各供述記載のあることは間違いない。被告人が小堀光詮から山上事務所や便所の掃除が汚いといつて注意を受けたことは事実であろうが、本件記録の諸所に窺われるように被告人は山上で割合に余暇のある生活を送つていたのであつて、同人の分担仕事について身分上の上役たる庶務幹事や山上事務所主任福恵英善からかかる程度の小言を云われたことが、異状な反抗心を起さすものと考えられるであろうか。殊に女関係については第四回公判期日における証人小堀光詮の供述記載中に「女関係の噂は聞いておりましたが余りひどい関係ではなく最近はやつている太陽族以下の程度でした。それで私は小畑に対しそんなことはしない方がよいという意味で深入りせんように親心から注意しました」「小畑は遊ぶ方が好きで野球やピンポン等をよくやつていました。小畑の仕事は別に苦痛を訴えるような仕事ではありません。積極的ではないが云つたことはやつてくれていました」「童顔の少年であり可愛い位しか思つておりません」「にくめない男です」とあり、又被告人の少年調査記録中に「小堀さんはおもしろい人です。私と宿院の鳥本さんと仲よくいたしておりますので小堀さんが鳥本さんがよんでいるとうそをいつてからかつたり、私がほんとうと思つて行くとうそであつたりじようだんをいつたりおどろかしたりされます」との記載があり、被告人の昭31・12・6付検察調書には「十月九日小堀さんは局議があつて午後五時頃帰られたのであります。その際大分酔つておられる様な様子でありましたから私は小堀さんの鞄を持つてケーブルの山上駅まで送るつもりで政所茶屋まで参りました。丁度政所茶屋と売店を経営しておられます森川政次さんが坂本の方に帰られることになつていて小堀さんと一緒に帰ると云われましたので、森川さんが小堀さんの鞄を持つて降りられたのであります。その際小堀さんは私に『ビール一本おごつてやる』といわれましたので森川さんの売店でビール一本持つて行こうとしましたが、山上事務所に即真、勝山さんが碁を打つておられるのを思い出し一本では足りないと思つて二本持つて山上事務所に帰り山上事務所で三人でビール二本を飲んだのであります」とあり、以上の供述記載より殊に最後の事実は火災後二日前の出来事であり、かかる親密さにある上役たる小堀が辞職しなければならぬ結果をまねくような行為を被告人が敢て為すであろうか。第五回公判調書中福恵英善供述記載によれば被告人は積極的に仕事をする方ではなく掃除が汚いので「もつときれいにせよ」と何回も注意し被告人が野球やピンポンをしていたときに「余り遊んでばかりいずにたまに仕事位せよ」と云つた事実を認めることができるが、右福恵は山上事務所主任であり日々被告人と机を並べて事務を執つているのであり、右福恵としては右のような程度の注意を与えることは当然であり、何回も注意したことは反つて被告人が福恵の注意を意に介していない証拠というべく又右福恵の供述記載によれば同人は被告人にきつく当つたこともなく又同人の性格は特に峻厳というわけでもないことが認められそうするとこの程度の注意を受けたからといつて福恵を怨み大講堂に放火するというが如きは到底考えられない。生田孝憲の昭31・12・4付検察調書によればラジオやキヤツチボールのことで被告人に同人が注意を与えたことは認められるが同調書にある如くひどく叱つたこともなく、注意を与えた事柄はいずれも被告人の非なる事項で反抗心を呼び起すべきことでなく、殊に右調書にある通り生田は同人の友人が嘗つて被告人の家に下宿していた関係で被告人やその家族のことをよく知つて居り、被告人が山上勤務をする直前まで働いていた玉井という京都市の石けん店に就職の世話をしたのも生田であるような関係にあり且つ幹事である同人から前記のような注意を受けた位でそれが何時までも心底に残り遂に大講堂放火を決意する一因を為したと考えることは到底できない。

(c)検察官は、上役の僧侶達は山上で肉食飯酒をしながら被告人が肉食飲酒したからといつて叱つたのでそれを怨んだことが本件放火の一因をなした、即ち上役の僧侶は山上では禁断となつている肉食飲酒をしながら被告人が昭和三十一年九月中旬頃山上事務所で肉食飲酒をしたのを発見されて叱責されたことについては被告人の当公廷における供述、第三回公判期日における徳江宏正の「九月中旬頃松岡、即真、小畑等と山上事務所で酒を飲み小畑が小堀にひどく叱られたといつて小畑がしよげていたと検察庁で云つたことは事実を申し上げたものである」旨の証言、第四回公判期日における辻井(旧姓松岡)昭善の「小畑は小堀に叱られて注意程度に心配していた。検事には小畑が心配そうな顔をしていたと云つたことは間違いない」旨の証言、第五回公判期日における即真尊{雨領}の「小堀から叱られて小畑はしずんだ点はありました。少ししけていました。同人は後で私に『本当に山を下りんならんのかいなあ』と云つた時には或る程度考えていたと思う」旨の証言、又第四回公判期日における小堀光詮の「小畑等が山上事務所で飲酒した翌日小畑に対し『君は再三あのようなことをやつているのか』と尋ねると小畑は『昨日が始めてです。皆が持つて来いと云つたのであのようにしたのです』と云いましたので私は小畑に対し『昨日山を降りよと云つたが山に泊つててもよいが君は年が若いので人から指さされることのないようにせよ』と云うと小畑は『どうもすみません。今度から気をつけます』と云つた」旨の証言前記即真尊{雨領}に対する検察官調書に「昭和三十一年九月二十八日頃小畑、松岡等と山上事務所で刺身と鯛の塩焼等で酒を飲んでいるところを小堀に発見され小堀が電話で小畑に対し明日一番で荷物をまとめて山を降りよといわれてしよげていた」旨の供述記載等によつて之を認めることができ、而して山上では肉食飲酒が禁ぜられていたことは多くの証人のひとしく認めるところであり、第四回公判期日における嘉瀬慶昭の「偉い僧侶も火事前は山上で飲酒していた」旨の証言並びに被告人の当公廷における之れに副うような供述によつて上役の僧侶が禁を破つて山上で飲酒したものであることが明らかにされていると主張する。右検察官の主張の証拠によつて昭和三十一年九月二十八日頃山上事務所において即真尊{雨領}、松岡昭善及び被告人三名が酒食を共にしたことは明らかに認められるところである。第五回公判調書中証人即真尊{雨領}第四回公判調書中松岡昭善の各供述記載によれば当日右即真が金を出し被告人が坂本の坂福まで刺身と魚の焼物を買いに行き又松岡が宿院より夕食を餠箱にのせて山上事務所へ運び二合瓶一本位を飲んだことが認められ、第四回公判調書中小堀光詮の供述記載によれば、同人が前記の酒食の場を発見して帰宅後急いで山上事務所へ電話をしたところ被告人が電話口に出たので「小畑君おまえはいつもああいうことをしているのか、ともかくおまえは下から通え」と云つたが、それは山上事務所においておくと又同じようなことをするといかんと思つて云つたことであること、もしも即真がその時電話口に出たなら同人に対しても同じことを云つたであろうことが認められる。右小堀、即真の供述記載によれば小堀光詮は当時比叡山延暦寺の庶務幹事であり一山の人事関係其他の事務を司り、即真尊{雨領}は根本中堂の主任であつて当日も酒食の費用は即真が負担し被告人は即真の指図通り行動したまでであつて責任はあくまでも即真にある筈で、小堀にしても被告人に対し強く叱責する筈がないのである。然し前記小堀の供述記載にもあるように被告人は年少者であるから将来右のような行為を繰り返さないよう一応注意したまでである。被告人が小堀から電話で叱られたことを検察官主張のように共に飲食した即真や松岡に報告したからといつて深い意味のあるものでなく殊に松岡の右供述記載中「小畑は心配そうな顔をしていたか」との検察官の問に対し「普通でした」と答えている。更に検察官の「証人は検事の調べの時には小畑は心配そうな顔をしていた旨述べているがどうか」との問に対し前記検察官主張のように「注意程度に心配していました」と答えているが、その言葉自体何を意味するか必ずしも明らかでないが、要するに被告人としては、その後小堀に許されたのみならず前記のように十月九日にはビールをおごつて貰つたのであるから、九月下旬頃に叱られたことが、本件火災当時まで被告人の心底に痕跡を残すようなものはなかつたものと見なければならない。(検察官はこの項では被告人が「山を下りよ」といわれて心配していたと主張しながら後記するように、山に居るのがいやだから放火したと主張するのは矛盾する)

(d)検察官は被告人は大講堂の扉の開閉がいやで、いつそ放火によつてこれが無くなればいやな仕事をせずにすむと考えたことが一の動機であると主張する即ち被告人が大講堂の扉の開閉を嫌がつていたことについては第四回公判期日における勝山忠円の「大講堂を閉めに行く時は普通の家よりも気味が悪い。大講堂内は薄暗いし仏像が沢山あるので何となしに薄気味が悪い。大講堂の当番の仕事を終えて帰りに大講堂の扉を閉めに来る小畑に会つたとき同人が締めておいてくれたらよいのになあと云つたことが一、二度位ある。小畑に大講堂の表入口の扉を外から閉め石ころが置いてあつたので不用心であると注意したことがある」旨の証言、第五回公判期日における即真尊{雨領}の「扉の開閉は単調な仕事ですから被告人に倦怠感のあつた様に見受けられた。小畑は夕方これから締めに行かんならんのかいなあという調子で云つていた。これは大講堂の扉を閉めに行く途中聞いたことが二、三回ある」旨の証言同公判期日における福恵英善の「小畑から大講堂の中に蝙蝠が棲んでいて時々バタバタさせるので気味が悪いと云つたのを聞いたことがある」旨の証言、即真尊{雨領}に対する昭和三十一年十二月三日付検察調書に「小畑は大講堂根本中堂等の戸締りは日が短くなると薄気味悪く皆山を下つてから戸閉めに行く頃に、ああ今から閉めに行かんならんなあと嫌そうにしていた」旨の記載、福恵英善に対する同年十二月三日付検察調書に「小畑は私に大講堂の扉を閉めるのが恐ろしくてかなわんといつていた。勝山から聞いたように思うが小畑が大講堂の扉を閉めるのがいやで中に入らず外から正面の扉を押した丈にしておいたと云つているということを聞いた」旨の記載等によつて之を認めることができ、その上第二十一回公判期日における被告人の供述中裁判官の「大講堂は中から閉めるのが正式の閉め方だろう外から閉めたのはどうしてか」との問に対し「ずぼらです。中へ入つたら時間がかかりますし」と答え裁判官の「それだけの理由か」との問に対し「はい中へ入るのは気持がよくないし、外からも閉められるし」と答えている裁判官の更に「中へ入ると気持が悪いのか」との問に対し「あまり気持のよい所じやないです、じめつとして薄暗いし」と答えているこれは本動機が真実であることの一端を被告人が識らず知らずの内に物語つているものだというのである。

右検察官が主張する証拠によれば被告人が大講堂扉の開閉を好んでいなかつたことは明らかである。問題点はどの程度にいやがつていたかということになる。無人の大堂殊に大講堂は小堀光詮の警察調書によれば僅かに常夜灯の明りの中に多くの仏像が並んでいる地下道のようなところを通つて夕方(朝はまだしも)内部から閉めるということは当時十八歳の少年であつた被告人としては決して好ましい仕事でなかつたことは明らかで殊にその仕事は被告人のものとして当初から約束せられたものでなく、第四回公判期日における証人福恵英善の供述記載によれば従来山上事務所小使として久保正吉がお堂の扉の開閉、山上事務所の掃除等をし、夜は同事務所で泊つていたが昭和三十一年六月頃から同人が高血圧のため宿直ができず下から通勤するようになつたので、当時山上事務所給仕である被告人が久保に代つて根本中堂及び大講堂の扉の開閉をするようになつたことが認められる。しかしながら、被告人が勝山忠円に対し「締めておいてくれたらよいのになあ」とか、即真尊{雨領}に「締めに行かんならんのかいなあ」と云つたのは前記同人等の調書によれば勝山忠円は大講堂の、即真尊{雨領}は根本中堂のそれぞれの堂番(主任)であり、それ等各堂の扉の開閉はいずれも本来堂番たる両人がそれぞれ為さなければならないことなのである。被告人とは年令も大して変りのない且つ前記のように共に飲食するような気安い間柄であるから自分の気の進まぬまま同人等に気軽く云つたまでであろう。兎も角も火災当時には既に六月から五ヶ月近く扉の開閉の仕事をやつて来たのである。はじめは多少気味の悪いことがあつたかも知れぬが、火災当時には慣れてしまつていたであろう。夏は日が長いし、開閉時でも明るいが、寒くなると日の暮が早いので淋しいという考方もあるかも知れぬが大講堂内は常夜灯のみで常時うす暗く外部の明暗は大して影響がないと考えられるから特にこの点は考慮を払う必要はない。とまれ少年の気易さから慣れるにつれて手を抜いた相当な方法を考えるものなのである。第四回公判期日における証人勝山の供述記載中「正面扉は扉の下と敷居との間が一寸位隙間があり、その観音開きの扉の打合せてあるところの下に敷居との間に石ころをつめてつつかえがしてありました」とあるのも、被告人が考えた手抜きの一方法である(この方法によると内部にはいらず大講堂の戸締をすることができる)即真尊{雨領}の昭31・12・3付供述調書中「小畑が受付にある棒状の懐中電燈を持つてお堂を閉めに行つたことがあるのを見ましたがいつだつたか忘れました時間も夕方でした。同人は事務所にある懐中電燈の中の一つは殆んど自分のもののようにして使つていましたがこれはお堂を閉めに行つたり又夜遅く宿院へ行つたりする時の明りにしていたものと思います」とあるのも、山上勤務の事情が判るにつれて然るべく工夫してやつていることが窺えるのである。第二十一回公判期日において裁判官と被告人との間に検察官主張のような問答のあつたことは公判調書によつて明らかであるがそれに続いて「大講堂に比べて根本中堂はどうだ」との問に対し「根本中堂も気持悪いです」「どつちが気持悪いか」との問に対し「同じようなものです」と答えている。検察官主張のように被告人が大講堂扉の開閉がいやだから大講堂を焼けばいやな仕事をせずに済むというのが本件放火の一動機とすれば大講堂はたとえ焼けても根本中堂は尚残るのは如何に解釈すればよいのか。又前記のように多少いやと考える仕事であつてもやり出して既に五ヶ月近くもなつてからその仕事を無くするため大講堂そのものを焼燬しようとしたと考えるのはあまりに考が飛躍し過ぎはしないだろうか。更に、もし検察官主張のように、真に被告人が大講堂の扉の開閉を怖れていたのであつたとしても、このことは最も不気味な時間に放火のため一人大講堂内に忍び込んだという本件命題と相容れないこととなり、本件の動機となり得ないところのものである。

(e)検察官は山上事所の宿直当番の僧侶が割当通りの宿直をせず一週間に二、三回被告人が独りで寝泊りしていたことは領置にかかる宿直日誌(証第九号)の記載ならびに宿直僧侶である徳江宏正、勝山忠円、福恵英善、坊城道澄等の法廷における証言等により明らかであり宿直僧侶が宿直しないので被告人一人が山上事務所で寝泊りするのを淋しがつていたことについては第四回公判期日における勝山忠円の「昭和三十一年六月頃小畑が山上事務所で寝泊りするようになつてから宿直の僧侶が宿直しないので私に一緒に泊つてくれないかと三、四回も云つたことがある。これは小畑が寂しかつたのかも判りません」旨の証言、第五回公判期日における即真尊{雨領}の「私は宿直に当りながら泊らなかつたことがある。小畑から一緒に泊つてくれと云われて二、三回泊つたことがあり又泊らなかつたこともある。検事調書に小畑は寂しがりやで宿直員が他にない時私達にも今晩自分一人やから泊つてくれと頼んだことがあるといつたことは間違いない」旨の証言同公判期日における坊城道澄の「宿直の番で二、三回泊らなかつたことがある。昭和三十一年六月頃小畑が泊つてくれというので一緒に応接間で泊つたことがある」旨の証言等によつて立証されているのである。宿直料五十円貰えることと淋しさとは無関係で宿直料が貰えるからといつて淋しさが滅却されるものではないと主張する。検察官主張の証拠によつて山上事務所の宿直当番の僧侶が割当通りの宿直をせず被告人が一人で同事務所に寝泊りをしなければならぬ日が多かつたことは認め得るところであり、而して又被告人が一人で泊るよりは宿直の僧侶が泊つてくれることを欲していたことも想像に難くない。然しそれはあくまでも比較の問題であつて被告人は山上で泊ることを絶対に嫌悪していたのではないのである。第四回公判調書中の小堀光詮、同松岡昭善の各供述記載昭32・7・16付鳥本美那子の証人尋問調書被告人の昭31・12・5付検察調書を綜合すると母一人子一人の淋しい生活よりも山上では若い僧侶と寝泊り世間話その他よもやまの話もできるし、女友達から電話がかかつてきたり被告人の方から電話をしたり、手紙を書いたり貰つたり、又宿院に行けば被告人の好いている鳥本美那子も居りその他宿院には若い女達も居ることであるし愉快な生活ができ、又第四回公判調書中勝山忠円、松岡昭善の各供述記載昭31・12・6付小堀光詮、同日付被告人の各検察調書によれば被告人は山上で右松岡、勝山、即真、徳江等と酒やビールを度々飲んでいることが窺知され、右小堀の供述記載によつても山上で泊れば一回五十円の宿直料が貰え(これについて検察官は宿直料を貰えることと淋しいこととは別問題だと云うが楽しく暮す一原因たることは間違いなかろう)衣斐和子の昭31・11・23付警察調書によれば被告人より彦根の女友達に電話したのが二十回位、同人等より山上事務所の被告人に電話したのが十四、五回位あつたことが認められ結構楽しい山上生活を送つていたというべきである。このことを裏書きするように第五回公判期日における証人坊城道澄の供述記載中「私が泊らない時は大体代りを立てる連絡をしております、その時に小畑がもうよい私が泊ると云つてくれたことが二、三回あります」とあり、被告人と互いに好意を持つていて被告人が常に本心を話していたと思われる証人鳥本美那子の昭32・7・16付尋問調書によれば「山上では宿院の女中が二十人位いた。私が一番親しくしていた」「被告人は山上では朗らかにしていた」「被告人が一人で泊るのは寂しいと云つたのを聞いたことがない」「山が気に入つて泊られるようになつたものと思つていた、火災前夜悲観していたようなことはなかつた」ことが認められるのである。また、大講堂が火災で焼失したならば、被告人の山上勤務が解かれて、自宅から通勤することができるようになるだろうことを窺わせる証拠もないし、またそのようなことは考えられないことであるから、本件の動機となり得ないところのものである。

(f)検察官は被告人が一山の僧侶の平素の行跡を面のあたりに見せつけられ大体が最初から自己の意思に反した就職であつて僧侶になる希望もなく味気ない月日を過していたことについては第五回公判期日における坊城道澄の「昭和三十一年六月頃小畑が私に一緒に泊つてくれと云つたので応接間で一緒に寝た。其の際こんなところにいつまでも勤めていてどうするのだと尋ねると小畑はなやんでいると云つた。検察調書に小畑が京都へ奉公に行つていたが姉さんも行儀見習に行つているが結婚話が纒らないし自分のことについても悩んでいるという趣旨のことが書かれているが自分の云つたことである」旨の証言があつて被告人がそのように悩んでいたことが窺われるのである。又第三回公判期日における徳江宏正の「私が小畑に白井万太郎は俗人で営林技師をしていたが老衰のため大講堂へかえられ、更に和労堂へかわり、それで一生を終り一生頭が上らなかつた。君もこんなところに働いていても俗人は一生僧侶になれないのであるからいつそのこと外に勤めを探した方がよいと忠告したことがある」旨の証言があり、被告人は平素親しくしている人から斯様な忠告を受け相当当時の境遇について悩んでいたであろうことを推認することができる。更に被告人が一山の僧侶の平素の行跡を面のあたりに見せつけられ快く思つていなかつたことについては、被告人が当公廷で「大体動機の点は自発的に云つたものである。大僧正は酒を飲んで醜態を演じだらしない人だと思つたことがある。同人が尼さんを妾にして平気でいるというようなことも云つた」と述べているのであつて、これは被告人の経験事実を基礎にして供述したもので真実性があるものと謂うことができる。被告人が放火当時の仕事に満足していなかつたことについては被告人が当公廷で裁判官の「寺側の被告人に対する取扱について不平不満はなかつたか」との問に対し「もつとはつきりした仕事をさせて欲しいと思つたことはあります。電話の取次ぎやお茶を出したり掃除をしたりするのが私の仕事であり、そのような仕事よりももつとよい仕事をさせて欲しいと思つていたのです。云々」と供述していることは前記坊城道澄の証言と相俟つて被告人の内心に不平不満のあつたことを物語つているものと謂い得ると主張する。第五回公判期日における証人坊城道澄の供述記載に検察官主張通りの記載のあることはその通りであるが、同記載によれば坊城が被告人と応接間で一緒に寝たとき坊城から被告人に「こんなところに何時までも勤めていてどうするんだ」と尋ねたとあり、「別に深い意味がありません。寝物語程度に話したのです」とあり、その問を出した経緯から見て被告人自身が著しく悩んでいたとは到底認められない。被告人の昭31・12・5付検察調書によれば被告人は父に死別しているが、それもその話し合つた時から十四年も以前のことで今更悲観の因になるものでもなく当時母は戒蔵院に居住し、被告人の仕送りで十分とはいえぬまでも衣食住に不自由なく、姉倭枝は被告人が山上事務所に勤める以前に同事務所に勤めていたが、本人の希望により退職し東京都渋谷区ワシントンハイツの寮に勤務上居住し自活しているし、次姉さよ子は昭和十八年頃坂本の料理旅館へ養女に行き同女より被告人はかえつて夜遊びの注意を受ける程で、弟光隆は叡南祖賢の弟子入をして比叡山高校に通学しているし、妹法子は大阪へ養女に行き被告人自身は前記のように山上で気楽に暮しているのであつて何処に被告人の悩みがあるのであろうか。第三回公判調書中検察官主張のような徳江宏正の供述記載のあることはその通りであるが同調書によれば検察官から「小畑から不服を聞いたことがあるか」との問に対し「私が一度注意したことがあります」と答え、更に「どんなことを云つたのか」との問に対し前記検察官主張のように答えているのであつて、これは同じ年若い親しい者同志が山上宿泊のつれづれなるままに、世間話や比叡山関係者のうわさ話の間に多少年長である徳江が被告人の将来について忠告めいたことを云つたまでであつて被告人が悩んでいたという証拠にはならない。被告人は警察並びに検察調書には放火するに至つた動機を種々述べているのであるが、これ等の供述調書が如何なる経緯で出来たかは後に記すこととするが第十二回公判期日における被告人の供述記載によれば被告人が福吉大僧正が酒をのんでくだをまいていたのを見た又尼さんを妾にしているということを聞いていて、だらしのない人だと考えていた事実を認めることができるが、被告人が公判廷で述べているように一山を粛正してやろうというような考えは持つていなかつたことは被告人自身が十八歳余でありながら、酒も飲み煙草も喫むし、女友達には不自由せず、映画は度々観るし若い僧侶とは享楽の行動を共にするし、日々気楽な生活を送つている真摯な生活態度とは到底考えられないことからも当然推察されるところである。次に被告人の右公判調書によると被告人がもつとはつきりした仕事をさせてほしいと考えていたことは認められるが、大講堂が焼失すれば、どうして被告人にはつきりした仕事が与えられる結果になるのだろうか。そのようなことは考えられないことである。しかも、反抗行為として大講堂の放火を選ぶには余りにも微弱すぎる慾求不満といわなければならない。従つて、この点も本件放火の動機とは考えられない。

(g)検察官は被告人が所謂戦後派の少年で衝動的に行動し時には本件の如き重大事件を容易に敢行する傾向のあつたことについては次のような証左があると主張するので順次分説する。

(Ⅰ) 喫煙飲酒の事実

検察官は被告人が喫煙し又飲酒の癖のあつたことは数多くの証人の証言があることによつて明らかにされていると主張する。被告人が喫煙し飲酒することは多くの証拠が存在するが、飲酒については飲酒癖というほどのものではなく、若い僧侶に誘われるまま(たまに被告人から云い出しても、せいぜい二人でビール一本程度である)に飲酒するのであつて飲酒したからといつて人と喧嘩をしたとか乱暴をしたとかの事実は見当らないのであり又あの年頃の喫煙も通常見るところで特に奇異の現象でもない。被告人は勿論模範少年とはいえないけれども本件記録にあらわれた程度の飲酒喫煙を以て大講堂放火事件と結びつけるのは酷ではあるまいか。

(Ⅱ) 検察官は被告人が既に女性と肉体関係のあることについては富松とし子に対する昭和三十一年十一月二十二日付大津警察署司法巡査大橋新吉作成の供述調書により明らかであると主張する、右供述調書並びに昭31・11・7付警察調書には「その時被告人は学生服を着ていた案外おとなしい遊び方であつた。一時間だけ遊ばれました。他に友達があつたように覚えている。被告人と遊んだのは一回だけである」旨の記載があるがこの点も前記(イ)で述べたと同じようにもちろん褒むべき行為でないにしても、この程度のことを以て本件放火と結び着けるのは無理ではなかろうか。

(Ⅲ) 検察官はキヤンプ場に遊びに来ていた彦根の衣斐和子、白石貞子等の女性と交際し彦根迄遊びに行き又これ等女性を大津に招いて遊び、更に延暦寺宿院勤務の鳥本美那子に想いを寄せ同女に万年筆を買い与えたこと等については徳江宏正の「小畑は時々女友達を変えても余り気にせずそれを自慢話のようにしていた。女関係については移り気な人である」旨の証言、第四回公判期日における辻井昭善の証言、第十回公判期日における鳥本美那子の証言、衣斐和子、白石貞子等の司法警察職員調書並びに検察調書等によつて如実に示しているものである。又本件犯行当時被告人が流行のマンボズボンを履いていた等も被告人の戦後派的性格の一面を示しているものと謂い得るであろうと主張する。白石貞子の昭31・12・14付検察調書衣斐和子の昭31・11・23付警察調書によれば昭和三十一年八月七、八の両日彦根洋裁学院の女生徒新井都美子外五名が比叡山へキヤンプに来た際被告人が山上を案内したことから知り合い、その後被告人も一度彦根へ同女達を訪問したことは認められるが、同年九月二十九日右新井外二名の女生徒達が大津へ行つたのは被告人が招いたのでなく同女達が被告人に対し面談したい要件があつたため同女等の方から出向いたのであり、第十回鳥本美那子の証言によれば同女と被告人とは気がよく合い友達のようにつき合い弟のように思つていた、暇な時には映画の話とか面白い話をしていたこと、第四回公判調書中辻井昭善の供述記載中火災の前夜被告人が万年筆を右美那子にやるといつていたことをそれぞれ認めることができるが、第三回公判期日における徳江宏正の供述記載中「宿院の女(鳥本美那子)とは別に深い関係ではなく遊んでいた程度です。彦根の女とは宿院の女より薄い程度に交際していたように思います」とあることから推察すると同証人の検察官引用部分の供述記載は、却つて被告人の女達との交際は浅いことの証拠ではなかろうか。マンボズボン(証第八号)に至つては被告人の昭31・11・30付警察調書には「そのズボンはアメリカさんの古手のもんでマンボズボンとか云うのに似たもので、青色の一寸はげ色のものでポケツトは左右の外に両尻の方にポケツトがついていたのですが、今年春頃に買い作業ズボンに長い間はいていたので後のポケツトは破れかけていたもので現在はとつてしもてありません」との記載があり右のようなズボンを常用しているからといつて戦後派的性格を示すと云い得ようか。

(Ⅳ) 検察官は被告人が放火前日の夕刻和労堂の屋根に石を投げ参詣者のひんしゆくを買つた行為については前記石井晋に対する佐伯巡査部長の供述調書に「私等六人は阿弥陀堂でお経供養をして大講堂に参詣して休憩所のところに下りて来た。その時大講堂の入口の戸を最後に閉めて出てこられたと後から思い出したが一人の見習僧と思われる全然見知らぬ人が伽藍の一つである休憩所の屋根に石を投げつけておられました。その常識はずれの挙動を見て義憤めいた気持で眺めた」旨の供述記載があり、参拝者を前にして斯かる行動をとれるのは少年という外に矢張り戦後派の精神を身につけた被告人の本性を示したものであろうと主張する。被告人の昭31・12・5付検察調書によれば同人は中学校を卒業後生田孝憲の世話で京都市にあるシヤンプ製造販売業玉井理介方に奉公に行きそこでは主人夫婦より子供同様可愛がられていたが、昭和二十九年九月頃延暦寺山上事務所受付に勤務していた被告人の実姉倭枝が辞めたので、被告人の母が延暦寺所有の戒蔵院に居住している関係で被告人が延暦寺へ勤めなければ母が右戒蔵院に居住できなくなるとて母が被告人を右玉井理介方を辞めさせ延暦寺へ勤めさせたものであることが認められるが、もともと僧侶になる目的でもなし信仰のために求めた途でもないのである。被告人の検察警察の自供調書によると山上事務所における被告人の仕事の内容は同事務所で絵葉書、お札、写真帳の販売、遊覧客のためのスタンプ押し、事務所に客があればお茶汲み、電話の取次、同事務所の掃除及び久保正吉が下から通勤するようになつてからは朝夕根本中堂、大講堂の扉の開閉であることが認められるが、いづれも単調で年少の被告人としては退屈で時間と精力を持てあまして居たであろうことが想像できるのである。山上事務所検証調書その他本件記録によると和労堂は仏像礼拝のためのお堂ではなく絵葉書写真帳等の売場もあり大部分は休憩所に使用され、前方は広場、後方は谷になつていて勤務を終つた被告人が漸く人影もなくなつた広場から少年の元気のやり場としてお堂の避雷針に小石を投げたといつて戦後派的少年と云えるであろうか。石井晋の昭31・10・31付警察調書によれば被告人の右行動を目撃した六人は六十歳前後の人が大部分で伽藍に対する感覚に被告人と雲泥の相異があることは止むを得ぬというべきであろう。従つてこの点も本件放火と結びつけるのは無理というべきである。

前記分説したように検察官が被告人の捜査官に対する自供を補強する証拠なりと主張した点はいづれもそれ自身としても検察官の見解と同調し難いし又後記するように被告人の自供そのものが任意性と信憑性に欠くるところがあるとすれば補強証拠としては問題とする価値がないと謂わねばならぬ。

(2)被告人の自供の任意性と信憑性について。

(イ)捜査の経過と被告人の自供の任意性。

(a)検察官は、昭和三十一年十月十一日未明比叡山延暦寺大講堂が焼失したので滋賀県警察本部、所轄大津警察署は直ちに焼失した大講堂の焼跡の実況見分を実施して出火原因の究明に努めた。一方延暦寺の関係者多数について大講堂における火器の使用状況、出火当夜山上に寝泊りした者についての出火発見消火作業の実情等について供述を聴取した。しかしながらこれら取調べは種々の事情があつて思うように進捗しなかつた。大講堂の出火原因については安藤技術吏員、細井技師の応援を得て綿密な調査と実況見分を行つた結果大体大講堂東南隅附近より出火したものであることが明らかとなつたが出火の原因が放火によるものか過失によるものかを明らかにし得る資料は何一つ発見することができなかつた。しかしこの段階において次の事項が明らかにされた。

(Ⅰ) 出火地点は建物の東南部即ち正面階段東端より東へ約六―七米略々中央にして建物の下部床附近と認められ、外陣にして東端中央部の柱(外陣東南隅より北へ約三米の位置に存在していた柱)より西へ約四、六米の位置附近の建物の下部床附近であること。

(Ⅱ) 出火地点附近に畳数枚の焼失したものが発見されたこと

(Ⅲ) 大講堂正面の扉の閂は扉が内部より施錠されたのではないかと疑わしめる状態で発見されたこと(検察官はこのように主張するが甚だ疑問であることについては前記した)

(Ⅳ) 大講堂の出火原因が人為的に出火地点と認められた位置に何等かの火気が作用された為に惹起したものと認めることが最も妥当であり、大講堂の建物の外部より作用されたものではなく内部で作用されたものと認め得られること

(Ⅴ) 大講堂において漏電したと思われる個所はなくその可能性はない。結局電気による出火原因は皆無であること

(Ⅵ) 大講堂出火当夜山上事務所には小畑泰隆、坊城道澄両名が、和労堂には松岡昭善が、警備詰所には田中正吉が、宿院には武覚円、井深観譲、鳥本美那子外数名が、又北谷の総持坊には福恵英善外数名の者が夫々宿泊していたこと

と主張するが以上は(Ⅲ)を除きいずれも検察官の主張するとおりである。

(b)検察官はその後引続いて出火原因を究明するため前記田中正吉、坊城道澄、松岡昭善、小畑泰隆等について大講堂の出火発見当時の事情、消火作業の実情、平素の行動等について詳細な取調べが続行されたが出火原因についての確信を抱く丈の資料は得られず、同年十月十八日頃までに一応関係人の供述聴取を打切りその後は専ら聞き込み捜査に移行されたと主張するがこれ亦検察官の主張通りである。

検察官は同年十一月上旬頃それまでの捜査資料を再検討した結果本件大講堂出火原因は放火失火不審火いずれとも決定しかねる状態であつたが、それ迄における被告人の供述が終始一貫せず且つ他の参考人の供述から被告人の行動に疑点が生じて来たと主張する。

次下検察官の主張の順序に従つて検討しよう。

(Ⅰ) 検察官は被告人は当初消火作業について「私が階段を登つて行き鐘堂のところへ行つた時は大講堂の東側の正面側角の辺りの下の方から火が出ていた。それで私は戸を開けようと思つて正面入口の大講堂の額のところに隠してある合鍵を取りに行つたが熱くて近寄れず次に東側から裏を通り西側の出入口のところに隠してある合鍵を取りに行つた。その合鍵を持つて鐘堂のところで消火していた松岡のところへ来て「戸を開けようか」と云うと松岡は「開けない方がよい」と云つたので持つて来た合鍵は鐘堂の辺りに捨てた」旨供述している(昭31・10・12付川島宗一の上申書参照)かと思うと、その後の取調べでは「大講堂消火の際松岡から『本尊でも出せんか』と云われたので大講堂西出入口のところに行つて隠してあつた鍵を取出して西出入口の扉を開けようとしたが煙が出ていたので危いと思つて扉を開けることを止め松岡のところへ帰つた消火に邪魔になるので鍵を鐘楼のところに捨てた」旨の供述にかえている(昭31・10・18付森崎警部補作成の供述調書参照)と主張する。

右川島上申書は火災後山上混雑の際主として鍵発見についての顛末を記載するのが主たる目的として作成されたものと考えられ、山上関係者の行動記載の如きは正確を期待することを得ず、殊に被告人の供述調書として作成されたものでなく、被告人の行動を証するものとしては証明力薄弱といわねばならない。尚同上申書には被告人が松岡のところへ来て「戸を開けようか」と云うと松岡は「開けない方がよい」といつたので持つて来た合鍵は鐘堂の辺に捨てたとあるに反し第四回公判における証人辻井(松岡)昭善の供述記載には「小畑君は私の筒先を持つ手伝いをしてくれていたように思います。その時私は小畑君に大講堂の本尊さんは出せないかなと云いましたところ小畑君は間もなく私の傍にいなくなり、それから又私のところへ帰つてきました」とあり、右辻井(松岡)との問答の如きは被告人として、いつわりを云う必要がないのに右上申書と右松岡の供述記載が喰い違つているが如きは、緊急突発時の行動に対する記憶の不確実と川島上申書の前記性質から来るものと考える。森崎警部補作成の被告人の自供調書は右辻井の供述記載と符合するのであつて、かえつて右森崎調書こそ措信すべきであると信ずる。

(Ⅱ) 検察官は大講堂出火後警察で関係人の取調べをした際被告人が勝山忠円に警察が自分のことを聞かなかつたかと尋ねたことがある。これは第四回公判期日における勝山忠円の同趣旨の証言があることによつて明らかにされていると主張する。

右勝山忠円の供述記載中「大講堂が焼けてから証人は警察で調べられたか」との検察官の問に対し、「調べを受けました」と答え、「小畑は調べについて証人にどんなことを聞かれたかと聞いたことがあるか」との問に対し、「あります」と答え、「小畑は自分のことを聞いていなかつたかと証人に尋ねたことがあるか」との問に対し、「そのようなことを聞いたことがあるように思います」とあるが、火災後山上勤務(大講堂勤務の者はもちろんである)の人達は十月十八日頃まで大津警察署に呼ばれて火災に関係して調べられたことは前記検察官も述べているとおりであるが、本件は大事件であり、取調べを受けている者達にしてもそれぞれ不安(勝山証人にしても大講堂の堂番であるからこの当時においては、或は自己の過失を何時問責されるかもわからぬという不安はあつた筈である)殊に今まで警察の調べを受けた経験のない者にとつては理由なき不安に駆られることは想像できるところであり、大津署への往き帰りに調べの模様を互いに聞き合うことも、さまで奇異とすべきではなく、殊に被告人は前記認定の窃盗及び賽銭窃盗があるから、松岡に右のような質問をしたのかも知れぬのであつて、そうだからといつてこれを以て本件放火を認定すべき資料とはすることはできない。

(Ⅲ) 検察官は被告人は昭和三十一年十月十一日午前三時半頃坊城道澄より大講堂が火事だといつて起され就寝していた応接間を出て事務室の玄関寄りの北隅迄行つた。坊城道は「同所から反射的に部屋に引返したときは被告人の姿はなかつた。直ぐ電話をかけに行つた時、被告人が受付の部屋から飛出して来て玄関へ走つて行くのを見たので、後から松岡を起して現場へ行つてくれ」と云つた。同月十五日頃被告人と警察の調べを終えての帰途被告人に『あの時たしか君は受付から出て来たなあ』と云うと同人は『鍵を取りに這入つたのだ』と云つたのでよく落着いてそのことに気がついたなあと思つた(第五回公判期日における坊城道澄の証言、同人に対する検察調書参照)というのである。然るに被告人は当時の取調べにおいて山上事務所の受付部屋に這入つた事実を否定していると主張する。

第五回公判期日における証人坊城道澄の供述記載中裁判長の「被告人はこの証人と警察から帰るとき自動車の中で証人から、あの時たしか君は受付から出て来たなあと尋ねられたとき、被告人は鍵をとりに入つたんだと云つた記憶があるか」との問に対し被告人は「ありません」と答え、又被告人の右証人に対する「私は証人に起されて一緒に事務所の窓際へ行き、大講堂の方を見て、それから証人が電話をかけに行くとき私も一緒に玄関までついて行き、玄関のところで証人が私に松岡や田中を起して現場へ行けといわれたので、玄関から出て行つたのであると思うがそうでなかつたか」との問に対し、同証人は「そうであつたかもしれません」と答え、更に裁判長の同証人に対する被告人が「鍵を取りに入つたんだと云つた時どこの鍵と思つたか」との問に同証人は「火災現場の鍵でもとりに行つたと思いました」と答えているのに、同証人の昭31・12・3付検察調書には「同人(被告人)が消火機具庫の鍵をとりに行つたのだと考えていたのであります。同人は常に山上事務所に泊つていたので出火の際直感的に消火機具庫の鍵に気がついたのだなあと思つていました」とあるのとも喰い違いこれは咄嗟の場合の自己の行動もはつきり記憶することは困難であるが、まして他人の行動を正確に記憶することの困難を物語るものではあるまいか。殊に前記のように大講堂内の賽銭の有無が明白でなく従つて被告人がこれを盗んでいないとすれば検察官の主張のように受付の部屋へ賽銭をかくしに行く必要もないことになるのである(賽銭を盗んでいないことは後にも記する)

(Ⅳ) 検察官は齊川観順の供述によると「昭和三十一年十月二十日頃被告人が十妙院の私のところに来て『一寸頼みたいことがある。大津で僕が時計を買つたことは警察が聞きに来たら云わんといてくれ』と又安宅では二百五十円宛出し合つて飯を喰つたと云つてくれ』と依頼されたその時同人は『警察に呼ばれてしぼられたが時計のことは何もいわなんだのや』と云つていた」(齊川観順に対する昭和三十一年十二月四日付検事調書、それ以前の司法警察員作成の供述調書参照)と主張する。

被告人が検察官主張の事柄を依頼したのは警察に窃盗のことが発覚するのをおそれ二百五十円及び時計の件を依頼したのであつて、これをもつて放火について何等か関係あると見ることはできないであろう。

(Ⅴ) 検察官は嘉瀬慶昭の供述によると「大講堂の火事後被告人の言動で変つたと思うのは例えば風呂に入るのに従来はお先へと云つていたのがお先にいただきますというように丁寧になつたことです」(第四回公判期日における同人の証言)とあり、又勝山忠円は「小畑は大講堂出火後は仏様の前でおがむようになつた」(勝山忠円に対する検察調書)というのであつて、大講堂出火後における被告人の行動の変化が認められたと主張する。前記嘉瀬慶昭の供述は、被告人の言葉使いがそのように変つたことがあつたとしても、それが何時から変つたのか果して火事を契機として変つたものか、火事後一般的に延暦寺職員に自粛の気風が出て来たためか、その点に瞬昧さが残るのであつて、かかる些細な一片の言葉使いを以て放火を推認することはできない。又勝山忠円の検察調書に小畑が火災後仏様の前でおがむようになつたとの記載は火災後延暦寺勤務者間に自粛自戒の風が急に起きたことは想像されるところであるが、そのため被告人も自らその気風に支配されて同人の行動に表われたものであるかも知れず必ずしもこれを以て被告人を放火に結びつけるわけには行かない。

(Ⅵ) 検察官は生田孝憲の供述によると「私は内陣の鍵は一つは正面入口の右側の看板の裏に一つは内陣西入口附近の扉の下にいつも隠してあるのを知つていたので、戸の開閉をする小畑に昼過頃(十月十一日)この事は何もいわずお前内陣の鍵は何処えやつたのかと聞くと、一つは看板の後ろに、一つは西の扉の下においたというので、私が絶対にそれに間違いないかと念を押したところ同人は暫く考えこんでいましたが思いついたようにそうだ西出口の方の鍵は仏さんを出そうと思つて西出口まで来て鍵を持つて開こうとしたがやめそれを鐘楼の下に捨てたと云つた」(生田孝憲に対する昭和三十一年十二月四日付検事調書参照)この点に関しては前記川島宗一の上申書の記載とも不一致であるので被告人の行動に疑惑を抱くのは当然であろうと主張する。

右生田の供述記載と川島の上申書の記載と不一致であることは検察官主張のとおりであるが、右川島上申書を全面的に措信するのに躊躇することは前記の通りであり、そうすると、右生田の供述記載が信憑力ありと考えざるを得ない。右生田供述記載によると「同人(被告人)は暫く考え込んでいましたが思いついたようにそうだ西入口云々」と答えているのであつて、周章狼狽していた時の行動についての突然の質問で思い出せなかつたことが認められるが、被告人が仮りに放火したものであるとすれば西入口の鍵は最も重要なものであるから、当然そのことについて尋ねられた時の返答を用意しておいた筈であるから、暫く考えこんでから答えたということは却つてそれが真実であることの裏付けとなるものと思料する。

(c)検察官は同年十一月十三日被告人を堅田警察署で賽銭窃盗の事実について取調べた。被告人に賽銭窃盗の事実のあることは、第二十二回公判期日における森崎良一の証言によつて明らかにされたように、同年十月十八日頃被告人の自供(調書は作成されていない)によつて既に明らかとなつていたものである。同年十一月十三日頃には警察は被告人について山上事務所の押入れの金庫に収納されていた現金についても又絵葉書案内書なども相当多量に盗まれているのでこれらは被告人の所為ではないかとの嫌疑があり、これらを解明し併せて前記のように大講堂出火に際しての被告人の行動についての疑点を明らかにしたいと思つたことは事実である。この間の経緯は第二十二回公判期日における中野勇の証言によつても明らかになつている。そこで被告人を同夕刻窃盗の逮捕状によつて逮捕したのである。被告人は逮捕後幾何もなく被告人より正座し泣きながら大講堂放火の事実を自供したのである。このことは第九回公判期日における岡本恒之、第十回第二十二回公判期日における中野勇の各証言に徴して認められるところである。翌日被告人を本件放火事実について逮捕したのであるが被告人はその後の取調べにおいて或は否認し或は放火の道行について供述を変更しているのであるが、例えば被告人が当初大講堂放火の際は東出入口より侵入したと供述していたが、その後西出入口より侵入したと供述を変更している。これは第四回公判期日における勝山忠円の「普通大講堂を開ける時は西側出入口から入つて正面の扉を開け、それから東側の扉を開けていた」旨の証言によつて明らかなように、通常大講堂の扉を開けるのは西出入口より入つていた永年の慣習があり、被告人も最後において真実の自供をするに至つたものと考えられるので決して不自然なことではない。その他被告人の供述の変更は自主的になされたものでいずれも条理に反する要素は窺われないのである。ここで特に注意すべきは被告人の放火行為そのものについては一時否認こそすれ供述には変更をみないことである。即ち大講堂の東南隅附近の蔀戸に横に立てかけてあつた畳五、六枚にローソクを逆さにして蝋を畳の縁に流して畳のすぐ傍にローソクを立てて放火した行為そのものは終始一貫して自認しているところである。同年十一月二十九日、三十日の被告人に対する岡本警部の供述調書その後における被告人に対する検察調書が本件の中該を詳細且つ適確に供述しているのであつて現実に犯行した者でなければ判らない事項について詳細に供述しているのである。即ち

(Ⅰ) 大講堂の西出入口を左手の方の扉を北の方へ押しやつて身体が入る位(約一尺五寸程)開け、ズボンの右ポケツトからマツチを出して点火し一間程内陣の奥へ入つたところでマツチの軸を足許にすてた。その附近まで来て常夜灯の光りが見えたと供述している。

(Ⅱ) 須弥壇前附近の賽銭箱から賽銭(五十円硬貨一枚十円硬貨約十三枚)の約百八十円程盗んだ時の所作が極めて詳細に供述されている。

(Ⅲ) 大講堂外陣常香盤の東側を通つて外陣の入口扉の方に行つた。ローソクをローソク立に突きさして賽銭箱と扉の間(約一尺五寸位)に入つた時左肩辺りが外陣正面扉裏の閂の「コ」の字型のところにさわつた、そして閂を押して扉をしめたような状態にした。賽銭箱の下からは十円硬貨約五枚盗んだと供述している。

(Ⅳ) 右手にローソクを持ちローソク立の背後を通つて畳の方に行つた。左手でローソクに風が当るのを蔽つて外陣の奥の方に進んで行つたと供述している。

(Ⅴ) ローソクを畳に近接して立ててからはそれを見ているのが恐ろしくなつたと供述している。

(Ⅵ) 鐘台のところ迄帰つたとき右手に鍵を持つているのに気がついた。今更西出入口のところ迄戻つて鍵をかくしに行くのは恐ろしいので鐘台の上に捨てたその時「チヤリン」という音がしたと供述している。

(Ⅶ) 部屋にはいつてズボンを脱ぐ時バンドのバツクルがガチヤガチヤ音がするのでバツクルを手で握つて脱いだと供述している。

(Ⅷ) 就寝後ゾクゾク寒気がして冷汗が出るような感じがした足の裏が少し痛いような感じがしたと供述している。

(Ⅸ) 坊城道澄に起されて応接間の電燈をつけてズボンを履き事務室の北の窓のところへ行つた。大講堂が燃えていた背広の右ポケツトから財布を出してそれを受付の部屋の自分の机の右抽出に入れに行つたと供述しているのである。

(Ⅹ) 十月十二日朝母親が山上事務所に来たので消火の際ぬれたズボンを脱いだそのとき放火に使用したマツチがズボンのポケツトにあつたので山上事務所と書院との間の庭にすてたと供述している。

と主張する。

本件の記録を通覧すると最も重要な意味を持つのは昭和三十一年十一月十三日堅田署において警視中野勇立会の上警部岡本恒之が取調べた同日付被告人の自供調書(中野警視立会の岡本調書)である、よつて先ずこれについて検討することとする。証人森崎良一(第二十三回)、同岡本恒之(第二十四回)、同中野勇(第二十三回)、被告人(第二十回)の当公廷における各供述を綜合すると以下の事実が認められる。被告人は本件火災後他の山上関係者と共に或は山上で火災について取調べを受けその後同人等は昭和三十一年十月十五日頃から大津警察署へ呼出されて引続き取調べが続けられ、被告人以外の者は大体その後三日間位で取調べが終つたのであるが、被告人のみはあと二日程余計に取調べを受け、その後は同署における取調べは行われず散発的に山上で関係者が事情を聴取されたに止まる。ところが翌月十三日朝突然坂本派出所巡査より被告人に堅田署へ出頭方連絡があり同日午前十時頃から午後四時か五時頃まで中野警視から賽銭窃盗について取調べを受けたのである。被告人の当公廷における供述によれば同日付同警視の調書(中野調書)が出来上つたので被告人が同警視に「帰らして貰いたい」旨申述すると同警親より「君は帰れると思つておるのか」と怒られ、暫時道場で休憩している内岡本警部の部屋へ呼ばれ窃盗の逮捕状を示され逮捕されたのである。検察官の主張によると昼間の窃盗の取調べに引き続いて岡本警部が取調べた際被告人が全く任意に懺悔すると称して本件放火をはじめて捜査官に自白したというのである。そこで当時における捜査陣の活動状況を一瞥して見よう。第八回公判調書中証人衣斐範夫の供述記載によれば大講堂は重要文化財であるから事の重大性に鑑みいち早く当時の滋賀県警察本部長が特別捜査本部設置を決定し刑事部長衣斐範夫がその総指揮をとることになり捜査が開始されたが出火点が大講堂の内部であるということが大体判明し、大講堂周辺の扉が戸締した状態であつたと考え、後に鐘台から鍵が発見されたことから犯人は鍵のありかを知つている者従つて内部関係者であるとしぼつたこと、当時大講堂の火災については諸新聞で喧伝されており同証人の公判廷の供述(第二十三回)によると右堅田署における取調のさいも新聞記者が沢山堅田署にきており同捜査本部においても本件捜査の成行につき苦慮していたことが窺われ、かかる状況のもとに先ず十三日付の前記中野調書ができ上つたのである。第二十三回公判期日における証人森崎良一の供述にもあるように同警視の取調べた賽銭窃盗は一ヶ月も以前に既に被告人が認めておつたのであるから窃盗で逮捕するのが唯一の目的であるならばその当時に逮捕していた筈である。しかるに十一月十三日に至つて急に捜査主脳陣が詰めかけて窃盗につき中野調書を作成しこれを資料として被告人を逮捕し、更に夜に入つて引続き堅田署に近接する同署長官舎に衣斐刑事部長、斎藤大津署長、桑田堅田署長が待機した中で岡本警部中野警視が取調べを続行したのは第二十三回公判期日における証人中野の供述にもある通り捜査側は既に被告人が放火についての重要な鍵を握つているものと見込をつけておるのであつてその被告人から一挙に放火の自供を引き出そうとの意気込であつたことは十分考えられ得るところである。かかる状況の中で被告人の当公廷における供述によれば堅田署の四十畳敷位の道場で火鉢を隔てて中野警視、森崎運転手同席の上岡本警部より「君は何か嘘をついていることがあるだろう素直に話した方がいい。仏さんもそんなに隠していたら許してくれん」「君はそんな嘘をついていても仏さんはちやんと知つているんだ。素直に謝まつておけ。あした山へ行つて仏さんに謝まつてやるから」と追求され真つ直ぐに坐つていると後の方で堅くならずにあぐらを組めと云い、あぐらをかくと、また前の方で真直ぐに坐れといわれ、ああいえば向うがこういい、こういえばああいうてくるというふうで捜査官の問に答える力もなくなり被告人は先に君は帰れるかと中野警視に怒られ、逮捕状を執行されたしどうせ自分は自由な身にはなれないし、捜査官が放火の疑いを抱きその自白を求めているものと考えて自暴自棄になり遂に大講堂放火を自供したものと認められる而して被告人は当時十八歳余の少年であり逮捕とか警察での調べを受けた経験のないこと、少年調査記録中性質欄に「即行性―思いついたことはすぐしたい心の抑制力が弱く、考えが浅はかで後悔とか失敗が多い。あきらめが早い。割り切る」とあり、また鑑別結果通知書に「被暗示性の亢進がみとめられる」とあること等も右認定を助けるものであろう。岡本証人は、前記堅田署における調べに入るにあたつて被告人に対し「これより放火について調べる」と云つたことはないと強調する。しかしながら被告人は火事後その日の朝から十月二十日頃まで継続的に放火について(証人森崎良一の第二十三回公判廷の供述によればその間賽銭窃盗については派生的に取調べを受け被告人はこれを認めたが、同刑事より同人に対し「母親か家族がそういうことを心配するといけないだろうからそういうことをあんたの方から言わなければ私の方からはそういうことは言わないから心配することはない」と告げられたことが認められるから被告人は窃盗については既に取調べの対象になつていないと考えていたことが窺える)その後も散発的に山上で火災の件につき調べられていたところ前記のように十一月十三日朝突然堅田署に呼ばれ既に認めていた賽銭窃盗について取調を受けて逮捕され夜に入つて更に取調べが続行された。その際岡本警部より、たとえ言葉使いはあからさまに「放火」とは云つていなくても捜査陣が抱いていた意気込当時の状況今までの取調べの経過(被告人は他の山上勤務者より以上にしつように調べられている)被告人を逮捕した上夜に入つて捜査官が交替して取調を開始したことから見て被告人が一貫して捜査が続いている放火の件についていよいよ自分を被疑者として調べ始めるのだと考えたとしても決して無理とはいえないだろう。又検察官のいう被告人が泣いてざんげし放火を自供したという点についての同人の弁解は自分は遂に放火の嫌疑をうけ家にも帰れなくなつたと思うと残念に思われて泣いたのであるというのであるが前記の取調状況からして詭弁とも思われない。もし真にざんげした上での自供であればあらゆる点において真実でなければならない。然るに検察官主張の通りとすれば十三日附自供調書の内容は虚偽に満ちたものである。(即ち被告人は後に重要な点について度々供述を変え、検察官は後の供述を真なりと主張しているからである。)このことはこの十三日附自供調書の任意性及信憑性の疑わしいことを示唆するものというべきである。検察官は被告人はその後の取調べにおいて或は否認し或は放火の道行について供述を変更しているが放火の方法そのもの即ち畳にローソクを立てて放火したという点については終始一貫しているというが事実被告人は取調べに当つて機会あるごとに自白を覆そうともがいているのであるが(放火の道行について、度度供述が変ることについては後述する)そして検察官が終始変らぬと主張する当初の自供調書にある畳にローソクを立てて放火したとあることについて検討すると前記したように被告人は火災後安藤技術吏員の調査によつて出火点が大講堂外陣にして東端中央部の柱(外陣東南隅より北へ三米の位置に存在していた柱)より西へ約四、六米(十五尺)の位置附近にして該建物の下部床附近、即ち右報告書にある畳の位置であるAことが捜査側に判明したことを知つていたこと、又第二十回公判期日における被告人の供述によれば同人は久保正吉より同人が畳六畳半程右出火点辺りの蔀戸に立てかけておいたということを火災後間もなく聞知していたことがそれぞれ認められ、他方被告人は山上事務所押入戸棚抽斗しの中に法事用大ローソクが保管されていたことを日々山上事務所で勤務しているから熟知していた筈である。前記認定のように十一月十三日夜、被告人は岡本警部に止むなく放火を自供したのであるが、岡本警部としては続いて放火方法を糺明するは当然思料されることで一旦「やつた」といつたからは否認するわけにも行かず追い詰められた被告人は、他の放火方法(畳、ローソク以外の)を云えば又その出所等を追求されるので前記自己の知り得た知識(畳、ローソク)を続りまぜて放火の具体的方法なりとして供述したのであろう。而して右方法については客観的事実(畳、ローソクの存在)と一致するのは当然で、なぜならば客観的事実を被告人が自供以前に知つていて、それに合致するように自供したまでであろうと考えられるからである。捜査官としては被告人の当初の自供が客観的事実に合致しているから何等疑をさしはさまずに、その他の道行について追求したのであるから、この二点(畳、ローソク)については供述は変らないのが当然で検察官のいう終始一貫していることはその通りであるが、その終始一貫している理由が前述の通りとすれば終始一貫していることは本件において何等の意味はないのである。次に当初被告人は放火に行く際はじめは東入口から入つたと述べていながら後になつて西入口から入つたと供述を変えている点について考究する東入口から入つたというのは昭31・11・13付岡本警部調書、昭31・11・13付調書(中野警視)昭31・11・22付調書(岡本警部)及昭31・21・26付検察調書で次の昭31・11・29付調書(岡本警部)に至つて西入口からはいつたと供述が変つているのである。そうすると当初被告人はなぜ東入口からはいつたと述べたか。これに対して被告人は第二十回公判期日において「それはぼくが逃げ道に近いからそういうたんです」とあり、大講堂出火事件実況見分調書によれば逃げ道が近いことは明瞭であつて、被告人の答弁に不審の念は起らない。それではなぜ東入口より西入口と被告人の供述が変つたか被告人の公判期日における供述に「それははじめ僕は東入口から入つていつたと言うておりますけれどもその鐘楼から出て来た鍵のことから確か衣斐さんだと思うんですけれども、君はまだ何か隠していることがあるだろうというから全然何も隠していることはないと言つたんです。そしたら鐘楼から出て来た鍵のことはどうだと、君はあの鍵は消火の時に捨てたといつているけれども本当はそこへ火をつけに行つた時に使つた鍵を隠すのを忘れてあそこへ捨てたんと違うかと追求してきたんです。それで僕も違うとか云つておりましたけれども衣斐さんが馬鹿者嘘つくな君の目玉を見ろと、君の目玉はちよろちよろ動いているのは嘘ついた証拠だとそれであんまりがみがみ言うてくるので仕方なしに変つたんです」とあり、川島宗一の上申書によつて火災後西入口の鍵が鐘台の西北角柱根石のところから発見されたこと、証人衣斐範夫(第二十三回公判期日)の供述によつて同人が十一月二十八、九日頃大津署四階公安委員室で被告人を捜査の最高責任者として調べたこと(この供述調書は作成されていない)、少年調査記録及び伏木滋の司法警察員に対する供述調書同証人の供述記載(第七回)によると小学校一年当時から目の玉が常に動いていること、右衣斐範夫の取調の当日か翌日かの昭和三十一年十一月二十九日付被告人の岡本警部に対する供述調書にはじめて西入口と変つていることが認められこれ等の事実と被告人の第二十回公判調書中同人が「岡本さんのときには衣斐さんのときの通りをすらすらのべました」と述べていることから綜合判断すると衣斐刑事部長の厳しい取調べによつて被告人が止むなく云われるままに供述を変更したことが認められるのである。

ここに一言したいのは、被告人が昭和三十一年十一月十三日一旦自供したとしても、それを撤回する機会がいくらでもあるではないかとの疑問である。被告人の自供調書を通覧すると随所に否認したことを窺うに足る箇所が散見されるが、それは直ちに当該調書によつて撤回せしめられているのである。被告人は判事の勾留尋問、検察官取調を通じて代用監獄大津警察署に勾留されていて、それらの期間中も警察の手の届く所に居つたのであつて、警察側としても被告人の動向は始終関心を以て見守つていたところであり又本件は事件発生当初より捜査は難行し、ようやく昭和三十一年十一月十三日被告人の自供を得たものの確信を掴むに至らざる内(当公廷における証人中野勇の供述(第二十三回公判期日)によれば)事件担当警察大津署は早くも検察庁より犯人検挙の表彰状を受け岡本警部の部屋に掲げられていたことが認められること等から考察すると、警察当局としてはあからさまではないにしても被告人の否認を防止する何等かの配慮の為されたであろうことは推察できるのである。そうすると被告人の自供調書に否認したことが散見されながら直ちにこれが撤回されている意味を理解し得るものと思料する。

検察官は昭和三十一年十一月二十九日、三十日の被告人に対する岡本警部の供述調書及びその後における検察調書が本件の中核を詳細且つ適確に供述しており且つ現実に犯行した者でなければ判らない事項について詳細に供述していると主張するから以下検察官論告書第二十五頁(イ)の点より順次検討する。

(Ⅰ) 被告人は昭和三十一年六月から大講堂の扉の開閉を朝夕していたのであるからその状況は平素から熟知しているのであつて西出入口左手の方の扉を北の方へ押しやるとか、その附近(一間程内陣の奥へ入つたところ)まで常夜燈の光が見えた(大講堂のような大建築物の三方の扉が閉まつていて一方のみ開けてはいつた内部の状況は昼夜間においてその暗さに大差ないものと思われる)とかいうことは平素から知つていることであつて特に放火に行つたから知り得たものとは思われないしその他約一尺五寸程扉を開けたとか右ポケツトからマツチを出したと云うが如きは前記したように、被告人が一旦自白したからには細部の追求が甚しく被告人は自己の知つていることを基として、捜査官の問に合するような答をしていたものと考えられる。

(Ⅱ) 須弥壇前附近の賽銭箱から賽銭を窃取したと述べているのは前記(Ⅰ)に述べたように須弥壇前附近に賽銭箱のあることは被告人は日々大講堂に出入していたのであるから当然知つていたと思われ且つ同人は火災前に賽銭を盗んでいるから賽銭箱の賽銭の出し方も同様知つていたものと推察されるし、賽銭の額、殊に金種別まで正確に覚えているということが却つて不思議であり、又第二十回公判期日における被告人の供述によると捜査官は火災現場から賽銭が出なかつたから被告人に対し「君は賽銭を盗りに行つて火をつけたんだろう」と追求したことが認められる。しかしながら、賽銭が果してあつたものか否かかかる大火災の火熱によつて僅かの賽銭が溶融したものか、実地検証のときに発見できなかつたものか種々の疑問が残り若しも賽銭がもともとなかつたとか溶融したとか発見できなかつたとかいうことになれば被告人の自供は砂上楼閣となるであろう。

(Ⅲ) 先づ火災後東西両扉の錠が施錠した形で、又正面扉の閂がはまつた状態(警察側はそう考えた)でそれぞれ発見されたことは大講堂放火事件実況見分調書によつて明らかである。そこで捜査側としては東西両戸は外部から施錠出来るが正面扉の閂は絶対内部より差込む外方法はないのであるから閂を閉めた者が放火の犯人であり、その犯人が大講堂内から閂をしめたものであるとの考えのもとに捜査が進められたことが窺われるのである。第二十回公判期日における被告人の供述によれば、十一月二十八日頃衣斐警視に調べられたとき、同人が火をつけに行つたついでに賽銭を盗つておこうと思つたのと違うのかと追求され、止むなくそれを認めると、次に「賽銭盗る時どうして盗つた」とか「腰をまげて盗んだんか」とか聞かれ被告人が腰をまげて盗つたと「答えると腰まげた時に何か触らなかつた」とか「何か当らなかつたか」とか追求され、被告人は以前から大講堂外陣の賽銭箱の位置形態、大きさ、閂の形態床上よりの高さその周囲の状況等を知つておりその上閂がはいつた状態で発見されたと火災直後聞いていたので追求されるままに閂棒をさし込んだと述べたものと認められる。常香盤、ローソク立、賽銭箱と扉の間の長さ等すべて被告人の熟知しているところであつて前記のように一旦放火を自供したからには細部の道行については日頃知つていることを織りまぜて自供したものであつて、かかる細部の点を述べているからと云つて被告人の自供に信憑性及び任意性があるとは断定できない。

(Ⅳ) 右手にローソクを持ちローソク立ての背後を通つて畳の方に行つた。左手でローソクに風が当るのを蔽つて外陣の奥の方に進んでいつたというが如き供述は捜査官の質問の仕方によつては、たやすく抽き出し得るものであることは何人にも考えられることであつて従つてこの点も信憑性及び任意性を認める根拠とすることができない。

(Ⅴ) ローソクを畳に近接して立ててからはそれを見ているのが恐ろしくなつたと供述しているがそれは本件放火方法及び状況を想像して見ても云えることであつて実際に経験した犯人でなくとも、このようなことは云い得ると考えられる。従つて、被告人が本件放火をやつてないとしても火をつけた後の状況を聞かれて、そう答えることも大いにあり得ることであつて、これをもつて自供の信憑性及び任意性を断定することはできない。

(Ⅵ) 本項(論告書のへ点)も質問の仕方によつて当然かかる供述は被告人から求め得るところと考える。仮りに被告人が放火の犯人とすれば、たやすく発見されるような鐘台の辺りへ西入口の鍵をすてるだろうか、又自己の犯行の発覚をおそれている被告人がたとえ夜間とはいえ「チヤリン」と音のするような捨て方をするであろうか(被告人の自供調書によると同人は音のせぬように跣足で放火に行つているのであつてそのこととも矛盾する)。

(Ⅶ) 部屋に入つてズボンを脱ぐ時バンドのバツクルがガチヤガチヤ音がするのでバツクルを手で握つて脱いだと供述しているが、本項も既に該バンドが押収(証第七号)されていてそれが被告人の常用していたものであるので夜間動かせば音がするのに隣室に寝ていた坊城が目を覚さなかつたことから、音のせぬようにどうしたかというような質問をして被告人の右の様な答を得たとも考えられ、これとても必ずしも放火に行つた者でなければこのようなことを供述できないというほどのものではない。

尚右押収されている該バンドを仔細に検討すると、そうたやすく音のするものでないことが判るのであつてそうすると、ますます補強証拠としての意味が薄弱となるものと云わざるを得ない。

(Ⅷ) 就寝後ゾクゾク寒気がして冷汗が出るような感じがした足の裏が少し痛いような感じがしたと供述しているのは、既に被告人が風邪を引いていたことが捜査官に知れていた(被告人の昭31・12・6付検察調書)のでどんな感じかと追求されてゾクゾク寒気がして冷汗が出るような感じと答え、跣足で行つたと答えたから足の裏が少し痛いような感じという供述になつたものと思料される。これも実際に体験しなければできないほどの供述ということができない。

(Ⅸ) 坊城道澄に起されて事務室から大講堂の燃えているのを見て背広の右ポケツトから財布を出してそれを受付の部屋の自分の机の右抽斗に入れに行つたことについて。

坊城道澄に起こされて事務室へ行つたのは背広の右ポケツトから財布を出して自分の机の抽斗へ入れに行つたのであると述べている被告人の供述調書は存在するが被告人はすでに賽銭を盗んだとの自供をし、又既に坊城は被告人が受付の部屋から出て来たと述べているので捜査官の質問に対し被告人が答えに詰り止むなく問わるるままにそれに副うた答をしたものとも考えられるが前記の如く坊城の被告人が受付室から出てくるのを見たということが措信できないとなるとこの点も補強証拠としての価値は薄い。

(Ⅹ) 十月十二日朝母親が山上事務所に来た際放火に使用したマツチを捨てたとの供述について、被告人は当公廷においてこの事実を否認している。なおこの点の供述も尋問の仕方によつては放火犯人でなくても創作し得るところのものと考えられるがマツチについては次項に述べる。

(d)検察官は被告人が放火に使用したマツチは被告人の自供によつて捜査官が始めてその所在を知つたもので同年十二月二日山上事務所と書院との間の庭を実況見分した結果山上事務所裏の「馬酔木」(あせぼ)の切株のところでこれを発見したのである。これは第三回公判期日における久保正吉の「十月十八日頃大講堂焼跡の銅板等を集積するため山上事務所と書院との間の庭を掃除し塵埃を全部馬酔木の切株のところへ掃き寄せたが、そのマツチはその塵埃の中にあつたものである。その場所は十月十八日以降全然掃除をしていないそのマツチの表絵は覚えていないが少し汚れ端の方が少しめくれていたように思う。そのマツチは今見せて貰つたと同様のものである」旨の証言と一致するのである。被告人は第三回公判期日の公判廷において裁判長より押収にかかる本件マツチを示されたところ「私のものに間違いありません」と供述したのである。弁護人は被告人に対し「君のものに間違いないと云い切れるのか」と質問したのに対し被告人は「このようなマツチを持つていたこともあり自分が捨てたものかどうか判らない」旨供述した。その後の法廷で被告人は「平素軸の残つているマツチでも捨てることがある」等と強弁しているが中味のあるマツチを捨てることは通常人の常識を以てしては到底考え得られないことである。被告人の右のような弁解は不自然なことであつて強弁としか受取れない事柄である。マツチの存在は被告人の本件犯行に対する自供を補強する有力な証拠の一つであると主張する。

昭和三十一年十二月二日実況見分の結果山上事務所裏のあせぼの切株のところでマツチ一個(証第二十四号)が発見されたことは争いのないところである。第三回公判期日における久保正吉の前記証言は、まことにその通りであるが被告人は同公判期日において裁判長の問に「私のものに間違いありません」と供述したのは東海道五十三次の絵のあるマツチは、広範囲に多数使用されていて手軽に入手できるもので被告人も常に喫煙の習慣を持つているからマツチの空箱を時々山上事務所の庭に捨てることもあり又その庭へは事務所内のゴミを掃きすてることもあるので一旦右のように答えたものの弁護人より厳密な問を発せられて、漸く事の重大性を認識し正確な答弁を為したものと思われる。検察官は右発見されたマツチが軸木八本在中していたことをもつて稀有のことなりとしこれを以て本件放火の重要な証拠となさんとするが如きであるが、右の如きマツチは値も僅か二円位時としては煙草の景品として無料で貰えることもあつて容易に入手できるから、物に対する真の感謝の念を持たないと考えられる少年であつた被告人が軸木八本在中のマツチを捨てることがそんなにあり得ないことであろうか。たとえこの発見されたマツチが被告人のものであるとしても放火に使用したものを捨てたと断定できない。又被告人がそのマツチを使用して放火したものであれば重要な証拠品を、たやすく発見されるような自分の起居する近くへ捨てるだろうか。

(e)検察官は被告人の放火に対する最終的自供の中で起訴状第二の二の(一)及び(三)ないし(五)の窃盗の犯行に使用した山上事務所電話室前の絵葉書、写真帳、手提金庫等の収められている押入れの差込錠のねぢ鍵についての自供がある。これは被告人が十月下旬盗みをやめようと思いその鍵を和労堂裏に捨てたという供述でこの供述があつて捜査官が十二月一日和労堂裏の藪の中を実況見分したところ被告人の自供通りの鍵(証第四十七号)(証第十一号の誤りと思われる)が発見されたのである。被告人の供述に真実性乃至信憑性のあることはこれ等の事実に徴しても容易に判明すると主張する。

しかし特定の「鍵」が右のような場所に存在することは通常全くあり得ないことであるが、「マツチ」についてはこれと全く性質を異にすることは前記のとおりである。またこの「鍵」と前記の「マツチ」とでは立証すべき事項が異り「鍵」は、もう窃盗しないと決意してすてたのであるからむしろ被告人にとつては有利の証拠であるから被告人から進んで申告するのは当然であるが、マツチに至つては鍵と立証すべき事項目的を異にする。

(f)検察官は被告人は警察官の前で最終的に極めて信用性のある自供がなされ、検察官の前でも認めながら家庭裁判所では否認したが、逆送後は再び前同様の自供をしているのである。又捜査官の取調べに際し被告人の供述に任意性を疑わしめるような取調事情は毫末も存しないのであつてこのことは衣斐範夫、中野勇、岡本恒之等の証言によつて明らかにされているところであると主張する。

前記被告人の昭31・11・13付岡本調書によつてはじめて放火を認めて以来被告人は放火の道行においては種々な変遷があつたが兎に角放火の事実を認めていたのであるが、同年十二月七日家庭裁判所に送致され同月十九日に至るまで同所において取調べを受けたがその間終始本件放火について否認していることは昭31・12・20付検察調書によつて窺われ、後同月十九日検察庁に逆送されるや再び又放火を認めているのである。この間の事情について被告人の弁解を聞いて見よう。当初の昭31・11・13付調書(岡本警部)については既に述べた。第二十一回公判期日における被告人の供述によれば家庭裁判所においては若い判事さんから利益になることを云えといわれて利益になることとは本当のことを云えということだと解したこと、もう再度警察へ帰ることがないと考えて否認したことが認められる。ところが再び検察庁へ十二月十九日逆送され、そこで再び検察官の調べを受けその際否認したところ検察官に「君が否認するなら仕方がない。わしの方はこれからきつく調べるけど、死ぬほど辛いだろうが仕方がない」ということを云われたこと、翌二十日朝大津署より検察庁へ護送される直前岡本警部から「君はまたおかしなことを言うておるじやないか、検事さんを怒らしたら君の損だぞ、素直に謝まつておいた方がいい、今更否認しても通らへん」と云われたこと、その時「僕がまた警察へもどつてきつく調べられるのがかなわんと思つた」こと、更に「僕はほんとうにやつてないから、否認した理由はないですから黙つていたんです、そしたら君は家庭裁判所で誰かに会つたかということを尋ねてこられて姉さんに会つたというと姉さん泣いたかとそういうことを話しておつたんです。そしたら君はそんな姿を見てどうしても否認しなければならんと思つて否認したんじやないかと追求され」その結果昭31・12・20付供述調書(検察官)になつたことが認められる。以上の事実より考察すれば警察の影響力の及ぶ時及び場所においてのみ自白していることが推認され、従つて家庭裁判所から逆送後の自供調書もその任意性が疑わしい。

(ロ)被告人の自供の信憑性

被告人は当法廷で「自分が警察、検察庁で自供したのは捜査官の暗示乃至誘導によるのである旨強調し、岡本警部からは(イ)昭和三十一年十月中旬頃森崎警部補に取調べを受けた際暗に放火したのではないかというようなことを云われたこと、(ロ)同年十一月十三日堅田警察署で窃盗の逮捕状執行後の取調べにおいて、斎藤大津警察署長、衣斐刑事部長、中野警視等と被告人に対し正座せよとか、安座せよとか云つて責めたてたこと、(ハ)その後被告人が放火の事実を否認すればどなり、自白すれば被告人に煙草、キヤラメルを与えたこと、(ニ)同年十一月二十二日附の供述調書の冒頭記載は否認した理由を云えと執拗に云われたのでくやし涙でそういつたこと、(ホ)昭和三十一年七月下旬頃山上事務所において福恵英善保管にかかる現金約二千八百円を窃取した事実を取調べられたとき被告人が否認すればもつとこわい人に調べて貰つてやると云われたこと、(ヘ)嘘と本当のことを交ぜて供述しておけば無罪になるというようなことは岡本警部から教えられたこと、(ト)録音テープによる被告人の自供採取に際しては被告人の供述中不適当な箇所があれば何回も最初から採り直したり不適当な箇所丈をカツトしたこと、(チ)動機についても誘導されたこと、(リ)被告人が作成した上申書の内容は岡本警部から教えられたこと、(ヌ)判事の勾留尋問の際も検事の取調べの際にも再三警察で云つた通りに云え、怒らせては損だと云われた等と主張するに対し検察官は岡本恒之、中野勇、衣斐範夫の各証言を以てすれば被告人の右主張はいずれもいわれのないものであつて、苟も本件被告人の取調べに際し誘導暗示等の事実は存しないのであると主張する。以上被告人と検察官との主張の相異についてはあるものは既述したところであり、あるものは本判決に関係あるものに限り適当の場所において述べることとする。

検察官は被告人は昭和三十一年十一月十三日堅田警察署で岡本警部より取調べを受け被告人がすでに自供した賽銭窃盗以外の窃盗事実について尋問された際本件放火の事実を涙ながらに自供したと主張するが、このことについては既に述べた。

検察官は少年である被告人が泣いて本件放火事実を自供したものであるならばその後否認するわけはなく又自供の内容を変更する筈がないと一応考えられるが、被告人は「誘われた欲情」の内容に影響を受け真偽を交ぜて陳述すれば無罪になるであろうと考えていたこと、後に述べるように当公廷においても矛盾ある供述を平然となしていること、山上事務所の押入の鍵を和労堂の藪の中に捨てて窃盗行為を断念したといいながら同年十一月五日起訴状第二の一の(八)の窃盗を累行していること等のことを洞察すれば同年十一月二十八日頃までの自供の変更も肯定できるものであつて何等条理に反するものでないと主張する。

後述する如く被告人の供述は多くの点に於て捜査中に変更されているのである。検察官はそれは被告人が「誘われた欲情」なる書籍を読んで捜査官に事の真疑を取りまぜて陳述しておけば、裁判で無罪になるであろうと考えて故意に供述を変更したものであると主張するので前記の書籍について検討して見よう、「誘われた欲情」(証第二十五号)なる書籍は元警視庁捜査第一課長浦島正平外一名述「名刑事ノート」と右「誘われた欲情」なる書籍名の上に肩書があり講談社刊行のもので、誘われた欲情(この一篇が書籍の題名となつたものと思われる)外十篇の刑事物語を集めたものである。而して第四回公判期日における嘉瀬慶昭の証言記載昭31・12・6付嘉瀬慶昭の任意提出書及び領置調書によれば同人が被告人から借り受けほんの僅か読んだが面白くなかつたのでそのままにしておいたものであり、昭和三十一年十二月六日司法警察員川副順一郎に任意提出し同人によつて領置されたことが認められる。而して被告人が何時、何人に対してこの書籍につき供述したか甚だ瞹眛であるが、被告人の供述調書にあらわれたところでは昭31・12・6付検察調書においてはじめて述べており前記任意提出書領置調書の作成日が昭和三十一年十二月六日付となつていることからすれば、捜査官よりはじめて右証拠物を示されてその説明を為したのは右同日であると思われる。第八回公判期日の証人衣斐範夫は検察官の「十一月二十八日に証人が調べたとき小畑は何と云つていたか」との問に対し「小畑は今まで東入口から入つたと供述していたのを西入口から入つたと供述を変えましたので何故今までそれを云わなかつたのかと尋ねると、実は「誘われた欲情」という本を読み又五番町事件を新聞で見ましたところそれには本当のことと嘘のことを半分宛云つておくと裁判で無罪になるということがわかりましたのでそのように云つたと云いました」と答えている記載があり、同公判期日の証人中野勇の供述中「十一月十九日被告人の性格素行等の調書をとりましたがその時に読んでいる本とか今までに買つた本等を質問しましたところ、小畑は一冊だけ買つたことがある。それは「誘われた欲情」という本であると云いましたのでその題名から考えてエロ本かとも思いましたが、これをヒントにしたかも知れんと思い任意提出して貰いましたが読むのを忘れておりました。その後検事さんから小畑は「誘われた欲情」という本の中の嘘つき名人の自白を読んでそのように自白していると云つていると聞き始めてその本を読みました」、第九回公判期日における証人岡本恒之の供述記載中「小畑にどんな本を読んだかと尋ねると、誘われた欲情という本を読んだと云いましたので、その本で犯罪の動機を植えつけられたのではないかと思い一応見るために任意提出して貰つて表紙を見ましたが、誘われた欲情となつており、これはエロ本であると思つて内容を見ずに金庫に入れておきました。その後検事さんから小畑は誘われた欲情という小説が載つてあり、それには嘘と本当とを混ぜて云つておけば裁判に無罪になると書いてあるのでそれを読んでヒントを得たと云つていると聞き始めて知つたのです」とあるかと思うと第八回公判期日における同証人の供述記載中検察官の「被告人が本当と嘘を混ぜて云つておけば裁判で無罪になると思つてその様に云つたと云つたがその動機はどこから得たか」との問に対し岡本証人は「京都の五番町事件を新聞で見て知つたと云つていました。それで私は五番町事件はそんなことでなかつたのと違うかと云いますと、小畑は自分はそのように思つたから仕方がないと云いました」と答え「誘われた欲情という本を読んで知つたと云わなかつたか」との問に対し「そんなことは聞いておりません」と答え証人は「誘われた欲情という本を読んだか」との問に対し「十二月七、八日か十日頃に読みました」と答え、更らに「どうして読んだか」との問に対し「本は領置して置きましたがエロ本と思つて読んでいなかつたのですが、検事さんから本の内容は本当と嘘をおり混ぜて云つておけば起訴できないようになると書いてあるので、小畑はその通りの自供をしているという連絡を受けたのでその後本を読みました」と答え、「警察で被告人は本当と嘘を混ぜて云つておけば裁判で無罪になるということは誘われた欲情という本を読んでヒントを得たと云つていなかつたか」との問に対し「新聞を見て知つたと云つていました。その例として五番町の事件を云つていたのです」と答えている。

第二十一回公判期日において「本のことを言わねばならぬ動機はどういうことだ」との裁判官の問に対し、被告人は「警察の方が嘘とほんまのことを云つておいたら裁判の時に無罪になると思つていたのかというてきたんです。それで僕がはいと云つたんです。それでそれはどういうことから知つているかと問うてきたんです。何か本でも読んだのかとか、何か人にでも聞いたのか、新聞ででも読んだのかと聞いてきたんです。それで僕は最近読んだ本は「誘われた欲情」を読んだと……」と答え、更に「誰に調べられた時にはじめて云つたか」との問に対し「岡本さんが中野さんだと思いますそれはどこにあるかと云うから嘉瀬君のところに貸してあると云つたんですそしたら嘉瀬君の処にあつたといつて持つてこられました」と答えている。

それでこれと以上三証人の供述(記載)を比較検討してみると前記衣斐同中野及び被告人の供述はいずれも昭31・12・6付検察調書に「誘われた欲情」のことが初めて述べられていることと、前記任意提出書及び領置調書の日附に照して措信し難く唯第八回公判期日における岡本証人の供述のみは前記任意提出書、領置調書の存在及び十二月五日付検事調書以後同月二十六日付検事調書まで警察調書が一通も作成されていないことに照し措信できるものといわねばならない。以上の事実より推察すると十二月六日検察官の取調までに被告人が仮りに「誘われた欲情」なる書籍名を警察で述べたとしてもそれはあくまで「どんな本を読んだか」との問に答えたものであり、決して嘘とまこと云々に結びついていなかつたものと認めなければならない。たまたま十二月六日検察庁において被告人の供述の変化について納得の行く結論が得られなかつた際「誘われた欲情」なる書籍が押収されこれを以て、被告人の供述変化の理論付けと為したことが認められる。然しながら「誘われた欲情」(証第二十五号)の記事自体には嘘と本当を捜査官に述べておけば裁判の際無罪になるというようなことを示唆する文言は毫も見当らない。「嘘つき名人」なる一篇にしても生来的嘘つきが自ら殺人犯人なりと自首する話で検察官主張の理論とは可成り縁遠いものである。尚右書籍の述者が元警視庁捜査第一課長であり著者中村貘も元警視庁巡査というに至つては無罪の口実を与えるが如き著書を発行する筈がないではないか。要するにこの「誘われた欲情」が被告人の所有物であつて、たとえ被告人がこれを読了していたとしてもこれを以て被告人の計画的自供の変化を示唆したとするに充分なものとは到底考えられない。

被告人は当公廷において矛盾ある供述を平然としていると検察官が主張する点については後述する。検察官は被告人が山上事務所の押入の鍵(証第十一号)を和労堂の藪の中に捨てて窃盗行為を断念したといいながら、同年十一月五日起訴状第二の一の(八)の窃盗を累行していることから洞察すれば、自供の変更も肯定できると主張する。なるほど被告人の昭31・12・5付検察調書及び押入の鍵(証第十一号)の存在によつて被告人が一応盗みをしないことを決意したものの十一月五日右検察官主張の犯行を敢行したことを認められる。しかしながら大講堂火災後一山に粛正の気が漲り警備も厳重になつたと思われ又散発的にもせよ放火の捜査も続行されている際に、真の犯人であればその発覚をおそれ、捜査官より嫌疑を受けるが如き行為を一切慎む筈であるに拘らず被告人が右十一月五日の犯行(窃盗)を為していることは却つて被告人が放火に無関係であるからではあるまいか。尚以下検察官が被告人の前記主張を強弁に過ぎないとして挙げる事項につき順次検討する。

(a)「昭和三十一年十一月十三日堅田警察署における取調べに際し被告人が放火の事実を自供したときの状況として被告人が岡本警部に対し被告人の方から正座して涙を流して自白した経緯は岡本恒之、中野勇等の当公判廷における前記証言により明らかであり、その際前記のように大講堂外陣東南隅附近の蔀戸に横に立てかけてあつた五、六枚の畳にローソクを近接して立てて放火した手段を自供しているのであつてこの供述内容はその後何等変更をみないところである」ことについて、この点については既に述べたところであるからここでは省略する。

(b)「同年十一月二十二日岡本警部の取調べに際し一時否認した理由として二、三分黙つてうつむき乍ら考えていたが、その中泣き出しながら『二十一日に弁護人に会つたとき、お前この火事は重要な国宝を焼いたのやから、こんなことを云うたら二年や三年の懲役では済まん、十年は行かんならんことを覚悟せなあかんぞ』と云われたからであるとしているのである。この事情も亦岡本恒之の証言により明らかにせられており又被告人は第十一回公判期日において「弁護人と十一月十七日頃面接したとき、やつたとすれば十年も十五年も刑務所へ行かなければならんと云われた」旨供述していることと相俟つて否認した事情も自供するに至つた動機もいずれも自然性が窺えるという」ことについて。第十二回公判調書中裁判長問「大津署へ来てから弁護士に面会したのは何時か」被告人答「十一月十七日以後であつたと思います」裁判長問「その時弁護士とどんな話をしたか」被告人答「弁護士さんが君は本当にやつたのか、本当にやつたのならやつたと云えやつていないのならはつきりやつていないと云えと云われたので次の調べの時からはつきりしようと思い実際はやつていないのでありますから否認したのです」裁判長問「放火したのなら何年位刑務所へ行かねばならんという話はなかつたか」被告人答「やつたとしたら十年も十五年も刑務所へ行かねばならんと云われました」裁判長問「それを聞いて吃驚してやつていないと云わねばならんと思つて否認した旨警察や検察庁の調書に書いてあるがどうか」被告人答「そういう意味で否認したのではありません弁護士さんがやつていないのならやつていないとはつきり云えと云われたので実際にやつていないので否認したのです」裁判長問「二、三年位なら修養のつもりで刑務所へ行つてもよいが十年も十五年も行かなければならないのなら困ると思つて否認したのと違うか」被告人答「二、三年位で済むと警察の人が云われたのです。それで弁護人に尋ねましたところ弁護士さんはそれ位では済まん、やつたとすれば十年か十五年は行かねばならないと云われました」なる記載があり他方被告人の岡本警部に対する昭31・11・22付供述調書中「こんなこと知らんと云うてかくし通したら罪にもならんと帰してもらえるやろうということを思いつきまして、にわかに今迄話していたことは皆違うと云うて嘘をつき出しました。而し警察の皆さんには、やさしくさとして貰えるので本当に自分のした罪は正直に話して早く罪のつぐないをして仏さんにもお詫びするのが本当やと思い改めて今迄のことを一切お話します」とあるが仮りに被告人の公判廷における右供述の理由によつてではなく「警察の皆さん」にやさしくさとして貰つて、そのやさしさに感激して自供したものであれば後に供述が変化する筈がないのにこれまで放火を決意したのは床の中であつて放火に行くとき山上事務所正面入口から出たとあつたが、四日後検察官に対する十一月二十六日付供述調書においては放火を決意したのは就寝前火鉢の側であり出て行つたのは事務所横の杉の生垣の間であると述べていることからしても右岡本調書の信憑力を疑をざるを得ない。上記の事項より判断すれば右に記載した公判廷における被告人の答弁は強ち強弁とも云えないのではなかろうか。

(c)「被告人が同年十一月二十八日頃迄に放火の道行について種々供述を変えているのであるが『これは嘘と本当のことを交ぜて供述しておけば無罪になる』ということに原因があつたのである。而して右『嘘と本当のことを交ぜて供述しておけば無罪になる』との供述は被告人の口から出たもので決して取調べに当つて岡本警部が誘導したものではないこのことは同証人の証言によつて既に明らかであり、被告人がかかる揚言をしたのは被告人の自供のように犯行直前に購読した『誘われた欲情』なる本の記載の影響によるものでこの本は被告人の供述によつて発見され差押えられたものであるからその信憑性は十分であると謂わなければならない」ことについて。

本件捜査の過程を考察して見るに被告人の昭和三十一年十一月二十六日付検察官に対する供述調書までは放火するとき大講堂東入口よりはいつたとなつているが前記のように衣斐範夫が十一月二十八日頃既に西入口の鍵が鐘台から発見されていることから被告人を追求した結果西入口から入つたと供述が変つたのである。その理由として検察官は被告人が嘘と真実とをとりまぜて供述して置けば裁判では無罪になるということを知つていて、わざと虚偽の供述をしていたのであると主張する。

なるほど被告人の岡本警部に対する供述調書には「新聞等で見ると裁判の時に本当のことと嘘の事をまぜて警察に話したことはその時に全部嘘やと云うたら罪にならんとこらえてもらつとると云う事件がのつていたのを見て知つていますので、刑事さんに調べられている中にどうしても本当らしい事をいわないと信用して貰えないので半分余りは本当のことを云い後は少し隠したり又嘘を交えたりして出鱈目を云つておりました」とあり同調書後部に、問「この間まで大講堂へ火をつけにはいるとき東入口からだと云つていたがどうして変つたか」答「実際は西入口から這入つたことは間違いないのです。嘘をついていたのは、前にも云いましたように嘘とほんまを半分々々に云うておくと、裁判の時に無罪になるということを新聞で見て知つていたので、刑事さんの調べに全部嘘を云うわけにもいかず、そうかといつてみんな本当の事を云つてしまえばあんな大事な大講堂を焼いたのですから世間も大騒ぎしておるしそれこそ大変な罪になると思うとこれも恐ろしいのでつい斯様な嘘を云つたのです」問「新聞で見たと云うのはどう云う事か」答「山上事務所には朝日新聞をとつておりますし、宿院には毎日新聞がとつてありますので両方共殆ど毎日見ておりますが京都の五番町事件なんかは本当はあの少年が殺したのだと思つているのですが、結局裁判や警察の調で話したことが一緒でなかつたし本当の事や嘘が混つていてどれが本当かわからんようになつてとうとう最後には無罪になつたように私は考えておりました」なる記載があるが他方第二十回公判調書中被告人の「警察がその嘘とほんまということを云うたのは西入口を東入口にしといたということを云つてきたんです。それで君は西入口からほんまは入つてきたんだけれども、東入口に云うてきたというのは、嘘やらほんまのことをまぜて云うておいたら裁判の時に無罪になるということを考えていたのかとこう聞いたんです。それでそういうことをなぜ知つていたか。何か本でも新聞ででも見たんかと云うてきたんです。それで僕はそんなこと全然知りませんし、見たこともないし、聞いたこともないし、全然答えてなかつたんです。そしたら警察の人が隣の人とそういうような事件は何かあつたかなとか話しておられたんです」「何かあつたかなと云つて話しておられたんです。嘘とほんとうのことをまぜておいて裁判の時にみな違うと云つたら無罪になるということを本か何かで知つたんかと云うたからそんなことは僕は全然知りませんし黙つていたんです。そしたら隣にいた中野さんだと思うんですが何かそんなことがあつたかなと云つていたんです。そしたら岡本さんか中野さんか知らんが五番町事件ということを云うてこられたんですそれで僕は五番町事件のことを云うたんです」、「警察の方が五番町事件はこうこうだといつてこられたんです」、更らに第二十二回公判期日において「西入口からとか東から入つたとか云うていて、最後に西入口からと嘘とほんまのことを云うておいて裁判の時に今のはみんな嘘だと云うたら無罪になるということを君は知つてそういうことをいうたのではないかと云われたのです」、「岡本さんです」、「そんなことは全然知りませんし考えたこともないです」、「君何か最近読んだ本はないかと尋ねられて誘われた欲情という本を読んだと云うたのです」と供述している。右岡本調書と当公廷における供述とを比較するに所謂五番町事件なるものは犯行の現場において犯人と目され起訴された以外の者が犯行に介入し、実際は右介入者が犯罪の結果を招来したものであることが判明したため当初犯人として起訴された者がその責任を問われなかつた事件であること、岡本警部の昭和三十一年十一月二十九日付供述調書に至つてはじめて大講堂へ放火に行くとき西入口(従来東入口)からはいつたと供述を変えていること等から考察すると右十一月二十九日直前衣斐刑事部長が鐘台柱石のところから発見された鍵から放火にはいつたのは西入口なりとの確信を持ち被告人を追求し同人をして警察の確信通りの自供を得て引続き岡本警部が右自供の変化の根拠付けを考究した結果嘘とまこと云々五番町事件となり、その上読んだ書籍がたまたま誘われた欲情なる「刑事ノート」であつたため、検察官はこれを以て嘘とまこと云々を思いついた根拠なりと断定したのであることが窺える。要するに警察、検察庁における自供調書は捜査官の筋書通りの供述を求められ被告人亦否認せんとするもかなわず問わるるままに答えたものと観るべきでなかろうか。

(d)検察官は、マツチの発見、山上事務所の押入れの鍵の発見等被告人の最終的自供が真実に基くもので決して架空のものでなく信憑性のあることは明らかであると主張するがこのことについては既に述べたのでここでは省略する。

(e)検察官は被告人の自供を録取した録音テープは被告人の主張するように屡々録音し直したものでなく又都合の悪い部分を抹消して録音したものでないことも岡本恒之の証言によつて明らかである。特に岡本警部の面前で録取した録音テープは極めて穏かな雰囲気の中に進められ途中被告人の笑い声さえ聞かれ得たのである。何人もかかる情景に接しては聊かも被告人の供述の信憑性に疑いを抱く者はなかろうと主張する。

被告人の録音については警察におけるもの二巻、検察庁におけるもの一巻が当裁判所に提出されているが、右警察における二巻について第二十四回公判期日における証人岡本恒之は検察官の「録音をお取りになるとき捜査官に不適当な箇所があれば何回も最初から取直すとか、それからその部分を削つたというようなことを被告人は云うておるんですがそういう事実はございますか」との問に対して、「全然ございません。あの録音機は途中で消してそれから継ぎ直すということはできないですね。全部消すということならできるかも判りませんが、そういうことはあの録音機はできない筈です」と答えている。これに対し、第二十一回公判期日において被告人は「警察と検察庁で録音をとられた。どちらもこれから録音をするということを前もつて知らされた。警察では被告人の前へ録音機を据えて自供調書を見ながら質問をされた。いつの調書かわからないが大方調書ができてから録音をとられたように思う。その調書に書いてあることと録音のこととだいたい同じようなことが載つていると思う。調書を見たりして向うが問うてくることを答えていた。そして間違つたことを云うとまた逆に戻して声を消し一からやり直した。それで、もうすらすら云うようになつておつた。検察庁では録音とると聞いたけれども録音のマイクがどこにあるか判らなかつた。それで話をしながらそこらずつと見ていたところ、窓のところから線を引張つて電話器が添えてあつた。電話器のダイヤルのところが破れて網が張つてあるです。それでそのなかにマイクが入つておるのではないかと思つた。検察庁では北元検事さんが先に調べた調書を前に一応置いておられたように思う。」山に御詠歌を吹きこんだテープレコーダーがあるので逆に戻すと声が消えることを知つていた。旨供述していること、又本件記録によると録音は当初四巻当裁判所に提出されたが内一巻は後に撤回されたこと等から考察すると警察においても検察庁においても強制とか拷問とかによつて録音が作成されたとは考えられないが、被告人は右録音を作成されるまでに既に何回も取調べを受けその供述調書も作成せられて単に録音はその再製的復習的意味を持つものと思考する。そうすると被告人の自供調書の効力に対する当裁判所の判断はすべて本録音にも該当するものとしなければならない。いずれにしても本録音(三巻共)の第十回及び第二十回の各公判期日における再生に当つては雑音が入り被告人の供述を明確に聴取することが困難であつてその点からしても本録音の証拠価値は僅少なりと思料する。

(f)検察官は被告人の上申書、タバコケースの紙片(メモ)等も被告人の供述の信憑力を増すものとみられる資料である。特にタバコのケース紙片に書かれた母親に対し詫びる旨の文書は被告人は窃盗事実について母親に詫びたものであると強弁するが、その頃被告人は本件放火事実についても全部自供した後であるから全犯罪事実について母親に詫た趣旨であると解するのが相当であると主張する。

上申書について。

被告人は昭和三十一年十二月三日付で鉛筆書の上申書と題する書面を捜査官に提出しているのであるがこれについて考究する。同人は第二十一回公判期日において「それは岡本警部から、何処で何時生れ誰に育てられたとか、姉が前に延暦寺に勤めていたこと、自分が同寺に勤めるようになつたことやら、国宝の建物を焼いたのだからこれから素直になつて真面目にするから寛大にして貰えるようになるべく詳しく書くようにと紙と鉛筆を渡された。自分は別にこんなことをした憶えもないし書く必要もないしこんなもの破つてしまおうと思つたこともあるけれども、書かずにいたら警察の方から又何か云うてくるし又あとでごたごたいわれるのも嫌やし、それで、自分は先にああいうことも云うたし警察からああいうことも云われたし、こういうことも書いておけと思つて自分の起居していた畳の上で三日位かかつて書いた」旨供述しているし、又第二十四回公判期日における証人岡本恒之は「あれ(上申書)は時間を限定しませんでした。書けたら出してくれというだけで看守巡査を通じて出してくれました」、「確かそういうと晩四時かそこら頃に調べが済んで(監房に)入るときに持つていつて、それから翌日の夕方かその又翌朝看守巡査を通じて出して貰つた」旨の供述とによると右上申書が出来上るのに約三日を要したものと認められる。而して右上申書においては被告人は放火を決意するに至る動機として「このような仕事をしているのはいややし、これから日は短かくなるし、冬になると寒いし、お堂の戸を締めたりするのはいややなあ、いつそう大講堂を焼いてしまつたらまた家からかよえるし、山で泊るにしても宿直者も毎日泊ると淋しくないし、一山の坊さんもあんまりえらそうにしとるし一回火をつけておどかしてやろうという気になりました」とあるが、右動機の一部については既に検討したし残りについては後に検討するように被告人が右動機として述べているような考えを持つていたとは考えられない。従つて右上申書の信憑力も薄弱といわねばならない。

タバコケースの紙片(メモ)。

第七回公判期日における証人藤沢宏視の供述記載、同人作成の昭31・12・4付捜査復命書、煙草の空箱(身の方、白紙と思わるる紙片)(証第二十六号)の存在によれば右紙片に「悪い事をしてすい(「み」の誤りであろう)ません。その上御心配をかけて申わけ御座居ません私も元気にしておりますから御安心下さい母上様へ皆様によろしく泰隆より」との記載のあることは明らかである。而して右メモ(証第二十六号)は前記復命書及び同藤沢宏視の供述記載のあることは明らかである。而して右メモ(証第二十六号)は前記復命書及び同藤沢宏視の供述記載によれば、昭和三十一年十二月四日被告人を検察庁へ押送しその日の検事の取調が終り夕方頃被告人を大津署へ連れ帰り同人を監房へ入れる際監房外で身体検査をした際発見されたものであることは明らかである。第二十一回公判期日において被告人は「大津署で調べられている間休憩している時に書いたんです。別にどうする積りはなかつたですけどただ鉛筆と紙があつたから書いたんです」「確かその日かその前の日だつたと思うんです。僕が賽銭泥棒のことを自供したということが新聞に載つておつたんです、それを僕はちらつと見たんです」、「その新聞を見て母も心配しておるだろうと思つてそれでそこに鉛筆もあつたし書いたんです」と述べているのである、右捜査復命書によれば該メモは被告人の着用していた紺合オーバー右ポケツト及び襟裏キツプ入れより、タバコ空箱とおもわれる紙片に鉛筆書の七曜表(証第二十六号)と共に発見されたことが認められる。而して第二十一回公判期日における被告人の供述によると毎日拘置所を出ると帰所後身体検査をされることが認められ、被告人もそのことを知つていた筈であるから右メモ中「悪い事」ということが放火を含めてであればうかつにも放火の証拠になるようなこのようなことを記載して所持する筈がないと思われる。又該メモと同時に発見された七曜表(証第二十六号)は右メモと同様の煙草空箱(身)と思われる紙片に十二月分の七曜を書いたものであつて、取調の合間に退屈のあまり書いたものと思われ、右メモはほぼその七曜表と同時に作成されたものと思われる、そうすれば該メモ中「悪い事」とは放火の如き重大事件を意味したものとは考えられないので右被告人の弁解はいつわりを述べているとも思われない。

(ハ)被告人の法廷における供述の矛盾について。

検察官は被告人の供述に次のような矛盾撞着があると主張するので順次検討する。

(a)被告人は岡本警部に対する昭31・11・22付供述調書までは大講堂に放火に行くとき山上事務所正面のガラス戸を開けて出て行つたとあるが、同31・11・26付検察官に対する供述調書に至つて山上事務所から宿院の方へ下る間の戸を開けずに手前の杉の木の疎になつたところから外に出たとなつていることは右供述調書によつて明らかである。被告人は第十二回公判期日において、裁判長の「最初表玄関から出たと云うたのを後で杉垣の間から出たように供述を変えた理由はどうか」との問に対し、被告人は「玄関から出たと云つても信用しなかつたので福恵さんが来られた時裏の戸が開いていたのを思い出しそこから出たと云つたのです」と答え、又第二十二回公判期日において「坊城さんが隣の部屋に寝ておられたし、玄関から出て行つたら音がするし、坊城さんに気付かれんようにしようと思つたから僕は書院に渡る廊下の所から出て行つたと云うたのです」、「どういうことで変えたのかはつきり記憶ございませんけれども福恵さんが尺八を取りに書院の渡り廊下から入つてこられたのです、そのことを思い出して」、「変えたのは僕から変えたようにも思いますけれども、何故変えたのか僕には記憶ございません」と供述していて、要はなぜ供述を変えたか正確に記憶がないことが窺えるのである。検察官は被告人が福恵の山上事務所へ尺八をとりに来たことを供述したのは被告人が家庭裁判所に送致された後であることが記録上明らかであるのに、「福恵のことは警察で供述を変更した時から判つていたが強いて云わなかつただけである」と述べているのは被告人の意思の強固さを如実に物語るものであり、延いて被告人の自供に信憑性のあることを裏付けるものと思料すると主張する。被告人の家庭裁判所から逆送後の検察官に対する昭31・12・20付供述調書によればこの調書に火災前夜山上事務所へ福恵英善が尺八を取りに来たことが認められる。検察官は被告人がそのことをそのときまで秘めて供述しなかつたのは被告人の狡智に長けている証左なりと云うが、被告人を本件放火の犯人であり放火のとき杉垣のところから出て行つたと前提して考えれば、あるいは検察官の云うような見方もできないわけではないが、被告人を黒白いずれとも仮定せずして考察するときは福恵が尺八をとりに来たことは単なる火災前夜の短時間些細の出来事であり、これを右十一月二十日以前に述べていないからと云つて「極めて意識的」な言動と云うことができるであろうか。思うに捜査当局によつて昭和三十一年十一月十五日為された山上事務所検証において「山上事務所の玄関には二枚の硝子戸がはまつているこの硝子戸は上半分が硝子下半分が板で上半分はあらい格子戸になつているものに硝子がはまつていた。二枚のガラス戸は左右に開くようになつていて敷居には金のレールが打つてあり向つて左側は開けるとき「ガラガラ」と比較的開け易いのに反し右側は戸車が破損していたのか「ガタガタ」と音がして開けにくかつた」こと、又「その障子の外は応接間北東側のドアから出られる廊下でこの廊下の外に更に二枚の硝子戸がはまつている。この硝子戸の敷居には金製のレールが打つてありレールの上をすべるよう硝子戸に戸車がつけてあるが戸車がいたんでいたのか二枚とも非常に開けにくく開けるとき「ガタガタ」と音がして開けにくかつた」こと、杉生垣と塀との間に一尺五寸位の間があつてそこからも宿院に通ずる道路や山上事務所前の広場に出られることが判明した」ことと、火災前夜の福恵英善の行動として山上事務所横の杉垣のところから尺八をとりに行つた際廊下の硝子戸が開いていたので閉めるように被告人に注意したことが捜査官に判明したことにより、捜査官は被告人は当夜山上事務所を出たのは音のする玄関正面の硝子戸を開けてではなくして福恵の尺八を取りに来た時開けたままになつていた廊下を経て右杉垣のすき間から出たのではないかとの想定のもとに追求をしたところ、十一月十三日放火したとやむなく自供した被告人はその道行として、易々これに応じたものとも考えられるのである。こう考えると本項当初に記載した被告人の答弁は矛盾なく理解できるのではないか。

(b)検察官は録音テープの採取の方法について被告人の当公廷における供述は徒らに否認するものであると主張するが録音についてはすでに述べた。

(c)検察官は「被告人は弁護人との面接の際は終始放火事実を否認していたというが第二十一回公判期日において検察官は被告人に対し『検察庁で弁護人と面接した際にも放火事実を否認したか』と尋問したところ被告人は『矢張り否認しました』と供述している。しかしながら第十二回公判期日における被告人の『検察庁で弁護人と面接したときは放火事実を認めた』旨の供述記載があり彼我相矛盾するものである。この矛盾した供述も亦被告人が否認する為の否認であるということを物語るものと謂い得る」と主張する。第十二回公判調書中弁護人問「北元検事の部屋で私と面会した時間はどれ位であつたか」被告人答「僅かの時間でしたその時検事さんがおられなかつたら否認しているに違いありません。検事さんがおられたのでやつていないとは云えなかつたのです」との記載があるが検察官主張の前後二回の公判期日間には相当日時の隔りもありこの程度の喰違いを以て否認するための否認ともいえないであろう。

(d)検察官は被告人は坊城より云われて山上事務所の玄関を出て松岡昭善、田中久吉を起しに行つた際の行動について当法廷においては「山上事務所玄関から表へ出た時は跣足のままであつたので田中久吉を起した後山上事務所に立帰り、レインシユーズを履いて大講堂の方に行つた」と供述するのである。しかしながら第五回公判期日における田中久吉は「小畑に起されて詰所の外に出たとき小畑は詰所の入口のところに立つていた。大講堂の方へは小畑の方が先に行つたと思います」旨の証言をしているのである。従つて被告人が跣足のまま松岡、田中を起しに行き山上事務所へレインシユーズを履きに帰つた旨の供述とは相矛盾するものであり、又警察、検察庁における自供と相反するものであると主張する。

被告人の警察及び検察庁における供述調書中には被告人は坊城道澄より火事だと起され松岡及び田中を跣足で起しに行き、後レインシユーズをはきに戻つたというものもあり又当初よりレインシユーズをはいて起しに行つたというものもある。思うに、かかる火災のような突嗟の場合には、自己又は他人の行動の細部に関する記憶は到底正確を期し得ないものと云うべく、被告人自身も自己の行動について確たる記憶を喪失したものと考えられ田中久吉の右証言自体も果して正確なりや甚だ疑問である。要するに田中の右証言を絶体真実と見、これに対比して被告人の供述を虚偽なりと断ずるは酷といわなければならない。

(e)被告人は当公廷において昭和三十一年十一月十三日窃盗の逮捕状を執行されるまでに同年七月下旬頃山上事務所において同事務所主任福恵英善保管にかかる現金約二、八〇〇円を窃取した以外の起訴状記載の窃盗の各事実は総て自白していた旨供述している。しかしながら第九回公判期日における岡本恒之の証言第二十二回公判期日における中野勇の証言によつても十一月十三日の逮捕状執行迄には被告人は賽銭窃盗以外の窃盗事実については何等自供していなかつたことが明白となつていると主張する。

被告人の中野警視に対する昭31・11・13付供述調書が賽銭窃盗のみについての初めての自供調書であることは明らかであるが、事実上被告人がそれまでにその他の窃盗についても自供していたか否かは右証人岡本恒之、同中野勇の証言を措信するか被告人の弁解を認めるかによつて決するのであるが、昭和三十一年十一月十三日付中野調書が前記認定のような経緯でできたものとすれば、たとえ被告人がそれまでに賽銭窃盗以外の他の窃盗についても述べていたとしても、前記認定のように捜査官の意図が放火を取調べるのが主眼であつたのであるから確実に認められる窃盗事実について被告人の供述調書を作成しこれを以て逮捕状請求の資料にすることは当然考え得られるところである。従つて右中野調書が賽銭窃盗のみであつたとしても被告人がそれまでにそれ以外の窃盗についても自白していなかつたとは断定できない。いずれにしてもこの点は本件放火が被告人の所為なりや否やを決するについては殆んど関連性がない。

(f)検察官は被告人は当公廷において「大講堂正面扉の閂は以前から少し曲つていた」旨主張している。しかしながら昭和三十一年六月頃迄大講堂の扉の開閉の仕事に従事していた久保正吉は昭和三十二年十一月六日の臨床尋問において「閂は曲つていなかつた、閂はガタガタにゆるんでいたようなことはなかつた」旨証言しているのである。従つて被告人が大講堂の扉の開閉を久保正吉より引継いだのであるからその後大講堂の正面扉の閂が曲つたと考えられる事情がなければならない然るに左様な事情は皆無であるから被告人のこの点に関する供述も措信できないと主張するが閂についてはすでに述べた。

(ニ)鑑定について検察官はつぎのとおり主張する。

(a)本件放火並びに窃盗被告事件に関し昭和三十四年七月三十一日附鑑定人国家消防本部消防研究所鈴木茂哉外二名の鑑定書によれば被告人が自供した放火方法を以て大講堂を焼燬せしめ得ることは十分可能であり、この放火方法は自供の当初より変更されていないのであり、これが科学的に可能であることが立証された以上被告人の自供が信憑性あり且つ合理的に疑う余地のないことが明らかとなつたであろう。

鑑定結果によれば(イ)鑑定事項一に示される方法(大講堂火災の発火点及び原因が「大講堂東南隅角から二つ目と三つ目の柱の間の南側の蔀戸に畳六枚程(六畳半)立てかけてある畳の東側の縁(蔀戸の反対側から三枚目)に蝋を垂らして燃え易いようにし、長さ二〇糎直径一糎半のローソクをその畳の縁に接着して床上に立てた」ものとすれば大講堂は全面的の火災となるか)で放火が行われたものとすればこれにより大講堂が全面的の火災となることは可能であると判定する。右全面的火災になり得るか否かは、ローソクに接する畳と、これに重なる畳との重ね目部分が着火するか否かに係つており、この部分が着火すれば引続き畳の燻焼を経て床板に着火し、大講堂の全面的火災にまで発展することはほぼ確実と見なすことができる。なお、事件発生当時大講堂外陣内部にローソクの火炎がゆらぐ程度の隙間風が存在していたとすれば前記畳の重ね目部分に着火する可能性、従つて大講堂の全面的火災に至る可能性は著しく増大するものと考えられる。(ロ)鑑定事項二右放火方法によつて畳が発煙し火勢を整える(建物に燃え移るに十分な火勢)に至るまでの所要時間に対する結論として、鑑定事項一に示される放火方法において、前項で述べたような畳の重ね目の着火が起つた場合、重ね目内部に燻焼が進展して床面に接する畳下縁部が発煙を伴いつつ床板を着火させるに十分な高温度(三〇〇度以上)を持続するような燃焼状態に達するまでには最低一時間二十分程度(ローソクを床上に立てた時から)を要するものと推定する。なお本件当時大講堂外陣内部に前項で仮定したような隙間風が存在していたとすれば畳の着火ならびに燃焼が促進される結果、ローソクを立ててから約四十分にして既に右程度の燃焼状態に到達することも可能であると推定する。(ハ)鑑定事項三(前記一の原因によつて出火したものとすれば大講堂が火勢によつてどんどん燃焼し初める状態例えば「大講堂の東南角から正面石段にかけて約一間半、東側の方にかけて約一間程、外陣の下あたりから外廊を経て外側に火が吹き出て居りました。外陣の蔀戸はまだ燃えて居らず、廊下に接する面はやはり赤くなつていました」、「東南隅附近の床下から赤い火がメラメラと廊下の上へ外側から這い上つているのを見ました」というような状態になるまでに要する時間)に対する結論としては鑑定事項一に示されたる原因によつて出火した場合、鑑定事項三に示されたような大講堂の燃焼状態が現出するまでには、ローソクを床上に立ててから最低二時間二十五分程度の時間を要するものと推定する。なお事件当時大講堂外陣内部に前記一で仮定したような隙間風が存在していたとすれば床板着火までの所要時間が前項で述べたように約四十分短縮される結果としてローソクを立ててから最低一時間四十五分程度で鑑定事項三に示されるような大講堂の燃焼状態が現出することも可能であると推定する。(ニ)鑑定事項四(大講堂が一の原因によつて燃焼したものとすれば、どんな燃焼の経過をたどつたものか)に対する結論としては鑑定事項一に示される原因によつて出火したものとすれば、ローソクに接する畳とこれに重ねられている畳との重ね目部分に着火し、これ等の畳の燻焼を経て両畳の間の床板に着火する。床板の火は両畳の間にある床板矧目の隙間を通つて床下に燃え抜ける。この間床板の燃焼は発炎をともなわないが床下に燃え抜けると発炎し、畳も含めて燃焼は活溌になり、床下を横に燃え進むと同時に床上では床板蔀戸の敷居畳が発炎燃焼し、蔀戸面に沿つて炎が上方へ伸び天井に着火する。垂直材に着火すると火災の進行は急激になるので、蔀戸に着火して後は天井に着火するのは数分後であり、間もなく柱、梁桁等の大材に着火燃焼する。床上部の火が直接外部に現れるのは床下部より多少遅れてからである。(ホ)その他安藤技術吏員作成の火災鑑識報告書記載の焼燬した畳の位置等の問題点を解明し出火点はA、B畳を含め広くその附近とみるのが妥当であるとしている。

(b)結局本鑑定は昭和三十三年二月二十六日に第一回予備実験が実施され、同年三月三日に第二回予備実験があり、その後同年三月十一日十二日両日には鑑定人三名が現場に赴いて事件当時の現場の状況を推定するため諸種の資料を蒐集した。而してこれら資料に基いて出来るだけ事件発生当時の状況と同等ないしこれと系統的関連性を保つための実験条件(湿度、ローソク、畳等に合理性を持たせる)等極めて綿密に出来る丈実情に副うよう準備の上、同年七月二十四日から昭和三十四年六月四日迄の間前後十三回に亘り実験が行われたのである。その結果上記の鑑定結果が得られたのであるから貴重な鑑定というべきである。この鑑定結果は被告人の自供関係人の供述とも全く合致するものであつて聊かもその間齟齬が発見できない。即ち(イ)被告人の自供によれば被告人は昭和三十一年十月十一日午前一時五分前頃山上事務所応接室で眼を醒し本件放火を決意して青色のズボンを穿き右ポケツトにローソクとマツチを入れて同事務所の裏から出て大講堂に向つたのである。被告人が本件放火行為を終了するまでに約十五分要したとしても又鑑定書の指摘するように、大講堂内が無風状態で全然隙間風がなかつたとしても、畳の重ね目内部に燻焼が進展して床面に接する畳下縁部が発煙を伴いつつ床板を着火させるに十分な高温度を持続するような燃焼状態に達するのは午前二時三十分頃であり、更に放火地点附近の床上床下両部分が本格的炎上の様相を呈する状態に到り本格的炎上の状態に達するのは午前三時三十五分頃と推定される。(ロ)しかしながら鑑定書の指摘するように当夜大講堂附近には少くとも二、三米の風が吹いていたものと考えられ、更に大講堂内部が全く無風状態で且つ隙間風もなかつたとは到底考えられないような事情、即ち(A)大講堂が根本中堂とほぼ同時代に建立され同程度の規模を有している木造建築物であるが、根本中堂の床板の巾は約四十二糎、矧は突付になつていて互に密着している所が多いが一粍乃至五粍位の隙間の生じている所があるので大講堂もほぼ同様なことが謂い得られること、(B)被告人に対する検察官調書によつても被告人は畳のすぐ停に接着してローソクを床上に立てたときはローソクの炎がゆらいでいたと供述し、又ローソク立からローソクを取つて畳の方迄進んで行く時左手で風が当るのでこれを蔽つた旨の供述があること等から大講堂外陣内部に隙間風のあつたことは容易に窺知し得られる。従つて前記鑑定書によれば被告人がローソクを立ててから最低一時間四十五分程度で放火附近の床上、床下両部分が本格的炎上の様相を呈する状態に到るのであるから斯様な状態は午前三時頃には現出するのであるこのことは独り被告人の自供を科学的に裏付けるのみではなく坊城道澄、松岡昭善、田中久吉その他参考人の大講堂出火当時の所見炎焼状態の望見結果とも一致するのであるという。

要するに検察官は被告人の自供するところが昭和三十四年七月三十一日附鑑定人国家消防本部消防研究所鈴木茂哉外二名の鑑定書によつて凡て裏付けされるから、右自供は信憑性があり且つ合理的に疑う余地がないと主張するから以下、分つて検討しよう。

(a)鑑定結果(イ)について

右鑑定事項一に示される方法即ち大講堂火災の発火点及び原因が「大講堂東南隅角から二つ目と三つ目の柱の間の南側の蔀戸に畳六枚程(六畳半)立てかけてある畳の東側の縁(蔀戸の反対側から三枚目)に蝋を垂らして燃え易いようにし、長さ二十糎直径一糎半のローソクをその畳の縁に接着して床上に立てた」ものとすれば大講堂は全面的火災となるが、右「 」内は被告人の検察官に対する昭31・12・25付、同昭31・11・26付各供述調書第三回公判調書中証人久保正吉の供述記載、ローソク(証第六号)の存在によつたものであることは明らかであるから、被告人の自供調書通りの手段で放火したものとすれば本鑑定によると、大講堂が全面的火災になることはほぼ確実といわなければならない。

鑑定結果(ロ)について

右鑑定書中鑑定事項二即ち「右(イ)の放火方法によつて畳が発煙し火勢を整える(建物に燃え移るに十分な火勢)に至るまでの所要時間」に対する結論として、検察官が右(ロ)に主張する通りの記載があることは明らかである。

鑑定結果(ハ)について

右同鑑定事項三(前記(イ)の原因によつて出火したものとすれば大講堂が火災によつてどんどん燃焼し初める状態、例えば「大講堂の東南角から正面石段にかけて約一間半、東側の方にかけて約一間程外陣の下あたりから外廊を経て外側に火が吹き出て居りました。外陣の蔀戸はまだ燃えて居らず、廊下に接する面はやはり赤くなつていました」、「東南隅附近の床下から赤い火がメラメラと廊下の上へ外側から這い上つているのを見ました」というような状態になるまでに要する時間中の「 」内は第四回公判調書中証人辻井(旧姓松岡)昭善の供述記載、被告人の検察官に対する昭31・12・6付供述調書によつて同人等が、火災を知つてその現場へ駆けつけた時の状況であることは明らかである。そうすると(イ)の方法で被告人が大講堂に放火したものと仮定すれば放火後右辻井、被告人等が最初に現場へ駆けつけた時までの所要時間は二時間二十五分程度、もしも前記(イ)で仮定したような隙間風があつたとすれば一時間四十五分程度であるということになるが、その隙間風が吹いていたか否かについては既に判断したところである。

鑑定結果(ニ)について

検察官が前記(ニ)において主張するところは右鑑定書によつてすべて認め得るところである。

鑑定結果(ホ)について

その他安藤技術吏員作成の火災鑑識報告書記載中A、B畳を含め広くその附近を本件出火点とみるのが妥当であると解すべきことはすでに述べたところである。

(b)右(b)において検察官が主張する「結局本鑑定は」より「貴重な鑑定と謂うべきである」までは右鑑定書によれば明らかに認め得るところである。検察官はこの鑑定結果は被告人の自供、関係人の供述とも全く合致すると主張するから以下分つて検討する。

(Ⅰ) 検察官の前記(b)(イ)において主張する時間の関係は既に述べたところである。

(Ⅱ) 火災当夜の大講堂附近及び内部に風が吹いていたかどうかについても既に考察したところである。

(A) 右鑑定書によれば大講堂が検察官主張の前記(b)(ロ)(A)に記載する通りの状態であつたことは思料されるところであるが、先に認定したように大講堂所在地の地形(山頂ではなく且つ大杉木立に囲まれていた)及び前記、証人生田孝憲及び同前田平右ヱ門の証言記載によれば当夜大講堂内に風があつたと断言することのできないこともすでに述べた通りである。

(B) 被告人に対する検察官調書に被告人がローソクを床上に立てたときローソクの炎がゆらいだとかローソクを持つて畳の方迄進んで行く時左手で風が当るのでこれを蔽つた旨の供述の如きは、既に放火を止むなく自供した上は捜査官の尋問の仕方によつて容易に抽出し得る供述であろう(この点も前述)。

以上要するに、被告人の自供通りの方法で自供の時刻に大講堂に放火したとすると、本件火災が坊城道澄、松岡昭善、田中久吉の火災を発見した時刻に、同人等が現実に見た状況に達する可能性は右鑑定書の記載からこれを認めることを拒否するものではないがこの可能性のみを以て、被告人が本件放火を為したものであるとの結論をひきだすに十分であるとすることはできないところである。

尚安藤直次郎作成の大講堂火災鑑識報告書の「図中(右報告書添付図面)畳Aは上部に累積していた焼燬物の残骸、主として消し炭、土砂、金属の熔融残骸、小木材の炭化物を順次上部より除去したる際に殆んど地表部に於て発見したるもので、全体が完全に炭化して所謂黒色の藁灰となり、畳略々二枚分と推定し得られ略々縦を南北としてその下に床板の炭化物を隔てて直接地表に接していた。その北端は平面図に示せる如く束を焼失欠如せる土台石上に接し、その焼燬せる状況は別添写真No.23(A)(B)の如くであつた。この状態は該畳は火災に際してこの部位では初期に床下に落下したものと認めることが妥当と思料される」との記載、第十六回公判期日における証人安藤直次郎の供述記載中同証人は裁判官の「Aの地点が発火点であると断定できるか」との問に対し「出来ます」と答え、弁護人の「Aの畳は火災前はどのように置いてあつたものと思うか」との問に対し、「はつきり推定することは不可能でありますがAのような状態になり易い点から考えると、火災前床の上に発見されたような状態で置いてあつたものが焼けて床と一緒に落ちたものと見るのが妥当と思います」と答え、更に裁判官の「Aの畳が発見された状況から見て火災前Aの畳は蔀戸に立てかけてあつたものがずれてそのような状況に落ちたものと見るべきか、それともAの位置の床上にAのような状態で置いてあつたものと見るのが妥当か」との問に対し、「始めからAの位置の床上にAのような状態で置いてあつたものが燃えて落ちたと考えるのが一番考え易いと思います」と答え、第十一回公判期日における同証人の供述記載中同証人は裁判官の「証人の鑑識報告書第七項に添付してある平面図に記載してある(A)の畳だけが最初に燃えて床板が抜けるということは考えられないか」との問に対し「そのように考えるのが妥当と思います」と答えているのを綜合すると、安藤鑑識報告書を採用することになると出火点はA畳の位置となりしかもA畳は被告人の自供した蔀戸に立てかけてあつた畳とは最初から別個に置かれてあつたもので燃焼の時期も両畳は異にするという結論になるのであつて、被告人の自供通りの放火方法では本件大講堂火災が発生したものではないということになるのである。

(ホ) 被告人の性格及び動機について

検察官は被告人の性格については当法廷における多くの証人は明朗であつた旨証言するが第八回公判期日における中西千秋(比叡山中学当時の教師)の「比叡山中学勤務のとき、被告人を教えたことがある。同人は余り目立たぬ生徒であり成績が特別悪かつたということはなかつた」旨の証言、村上逸郎(元比叡山学院教諭)の「被告人は中学三年のとき一年程担任した。同人は内気で友人は少く孤独であつた数学はあまり良くできなかつた、五十人中四十番位であつた」旨の証言、伏木滋(坂本小学校教諭)の「被告人は六年生のとき担任した性格は内攻性で内気、人前では発言できない性格であつた、目立たぬ生徒であり成績は普通であつた」旨の証言があるこれ等を綜合すれば被告人が山上事務所では明朗であつたように見られているが、その潜在的性格は内攻性であつたことが判明するのである。被告人は犯行当時満十八年八ヶ月の少年であつた。この時代の少年の心理の特徴は内的不安定と不調和矛盾とである。又他方周囲からの遮断と逃避、非妥協的態度も此の時期の特徴である。これを被告人についてみると、或る証人は被告人が明朗であつたと証言するが、伏木滋の如く被告人の性格は内攻性で内気人前では発言できないような性格であつたと証言するものもあり、嘉瀬慶昭の検察官調書に「小畑は考え方が浅く大きな問題に対しては尻込みして云わないことがあり小心で内気であつたように思う」旨の供述記載があり、これは少年期における被告人の精神状態を如実に表現したものと謂えよう。被告人が動機として述べている前記動機は内部的不安定からの反抗と願望欲求の現われであると解されよう。被告人が捜査官に対し「若い者の気持は判つて貰えない」と主張したことはこの時期における青年の感情の複雑で分析することの困難であることを端的に表現した言葉であると考えられる。兎にも角にも本件犯行は少年時代における心理的解明によつて始めて理解し得る多くの問題を内包しているのである。成人である吾々の感覚を以て理解しようとすれば多くの矛盾を発見するがその誤りであることは多言を要しないところである。被告人については既に一つ一つ証拠に基いて詳述したように上役の僧侶から仕事をせよと叱られ、掃除が悪いといつて叱られ酒や肉食をしたと云つて叱られ、山上事務所の雑役といつた決つた仕事がない勤務に不平があり、大講堂の扉の開閉を嫌がり、宿直の僧侶が正常に宿直せず被告人独りが山上事務所で寝泊りすることが嫌であり僧侶になる見込のない山上事務所での勤務が嫌である等仕事に対する不満足さと、僧侶の不品行に対する反抗等が複雑な様相で少年である被告人の心理的動揺を刺戟して本件放火犯行に追いやつたものと解せられる。上役の僧侶は被告人を叱つたのではなく慈悲の心で注意したものであると証言するが内攻性であり内気である被告人に与えた心理的影響は決して軽くはなかつたものと解して差支なかろう。以上詳述した通り被告人の警察検察庁における自供は任意性があり且つ信憑性のあることが明らかになつたであろう。次に被告人の本件放火事件についての自供の中核をなすものは昭和三十一年十一月二十九日附岡本警部作成の供述調書以後の司法警察職員並びに検察官調書である。被告人の供述中諸般の情況及び経験則に基き真実なもの半ば真実なもの又は虚偽なものを包蔵している場合これに適当なる証明力を附与することは裁判所の自由裁量権に属することであるから被告人の供述中一部を措信し他の部分を措信しないからといつて自由心証主義の濫用ではない。被告人の司法警察員並びに検察官に対する供述調書中被告人が嘘のことと本当のことを取交ぜて供述していた昭和三十一年十一月二十八日以前の供述調書は措信し難いのであるから之を除外し、それ以後の供述調書を措信すべきであろう。従つて被告人の自供と補強証拠と相俟つて全体として犯罪構成要件として本件放火の事実を認定し得られるのであるから有罪の認定に欠くるところがないものと確信すると主張する。

先ず被告人の性格について記録を精査すると第三回公判期日における証人徳江宏正の「小畑の性格は楽天家の方でした。女友達を時々変えても余り気にせずそれを自慢話のようにしておりました」、第四回公判期日における証人小堀光詮の「小畑は遊ぶ方が好きで野球や、ピンポン等をよくやつていました。童顔の少年であり可愛い位しか思つておりません、にくめない男です」、第五回公判期日における証人即真尊{雨領}の「表面上は楽天的な方に見えます。叱られたことを根に持つていないように考えられます」との各供述記載、福恵英善の昭31・12・3付検察調書中「小畑は見たところ割合快活でありますが何となく落着きがありません」、生田孝憲の昭31・12・4付検察調書中「私には同人(被告人)はむしろ快活に見えますが少し足りんと思われるところがあります」との各記載、証人栴山円了の「小畑泰隆の性格は純真なように思つております」、同井深観譲の「小畑は朗かな人です、私にしんみり話したこともありませんし出会つた時には「今日わ」とか手を上げて「オス」とか云つて元気に挨拶していました」「陽気な方でした勤務状態も真面目でした」同鳥本美那子の「おとなしい人です、朗らかにしていました」との各供述記載から判断すると被告人の性格は明朗であつたとしなければならない。検察官は被告人を小学校や中学校で教えたことのある中西千秋、村上逸郎及び伏木滋の証言から被告人の潜在的性格は内攻性であつたと主張するがそれ等の証言はいずれも小中学に在学中のことであり殊に大勢の生徒の中から被告人をどの程度正確に観察し得たものであるか甚だ疑問であるといわざるを得ない。又検察官は被告人は本件犯行当時満十八年八ヶ月の少年であつてこの時代の少年心理の特徴は内的不安定と不調和矛盾であり、他の顧著な特徴は周囲からの遮断と逃避であり非妥協的態度もこの時期の一の特徴であるとし嘉瀬慶昭の前記検察官主張の供述記載は少年期における被告人の精神状態を如実に表現したものと主張するが、検察官のいう右少年心理云々は、少年心理学の一般論であつて一般論を以て断定を為すことを得ず、検察官主張の嘉瀬慶昭昭の31・12・7付検察調書には「小畑の性格ですが私の見たところ考え方が浅くて単純で自分の思つたことを少し大きな問題になると尻込みして云わないところもあり、小心で内気のように思います。別にこれと云つた適当な例はありませんが言動全体を通じてそのように受けとれるのです」との記載があるが右嘉瀬が被告人を小心で内気と思つたのも確たる根拠があるわけでなし、たとえそうだとしても「考え方が浅くて単純で自分の思つたことを少し大きな問題になると尻込みする」ような被告人が大講堂放火という大事件を敢行できるであろうか。被告人が捜査官に対して「若い者の気持は判つて貰えない」と云つたのは、後に検討するように被告人の自供した本件犯行の動機が被告人の架空の捏造した動機であるから捜査官の納得のゆくところとならず遂に被告人をして右の言を発せしめたものと見なければならない。

検察官は少年の犯行については成人の感覚を以てしては多くの矛盾を発見するという。なるほど少年の心理は吾々の感覚とは異なるものあることは検察官の云う通りであるが、しかしながらそれは動機についても成人としては動機たり得なくても少年の心理の動きとしては動機たり得るものと理解し得るものでなければならない。又検察官は犯罪には動機の発見されないことがあり、情動が盲目的行動において捌け口を見出すに過ぎないと思われるものがあるというが犯罪には動機は必らず存しなければならないもので動機の発見されないことはあつてもそれは発見されないに止り、存在しないのではない。

これを要するに犯行には少年なら少年なりに動機が存在しなければならぬものと思料する。

検察官が本件犯行の動機なりと挙示する点についてはいずれも上述したが、ここに被告人の自供調書に表われた動機の変遷を調べてみよう。昭31・11・13付岡本調書には(1)「大講堂の扉の開閉がおそろしい」、(2)「あのような大建物が燃えるやろうかとの好奇心」、昭31・12・16付中野調書には(3)「大講堂がなくなれば扉を閉めることがいらぬ」、(4)「いつまでもあのような仕事はいやだ」、(5)「一山の僧侶を驚かせてやりたい」、前記(2)、昭31・11・17付検察官作成弁解録取書には前記(1)、(2)、(3)、昭31・11・18付裁判官作成弁解録取書「どういう気持かわからぬ」、昭31・11・22付岡本調書には(6)「ローソクの火ぐらいであんな大きな建物が燃えるやろうか」、(7)「大講堂がなくなれば家から通える」、前記(2)、(3)、(4)、(5)、昭31・11・26付検察調書には(8)「福恵、小堀から掃除が汚いとしかられた」、(9)「賽銭やその他の窃盗をしたのでこんな仕事をするのがいやになつた」、(10)「大講堂には仏像が沢山あつて薄気味悪い」、(11)「だんだん日が短くなつて寒くなるから大講堂を閉めるのがいやだ」、昭31・11・29付岡本調書には(12)「便所の掃除をしたり坊さんの寝床敷いたりする仕事がいやで家から通えるようになりたい」、(13)「窃盗をして、はでな生活をして来たので今の生活はいやになつた」、(14)「大講堂を焼いたら警備員も宿直もふやして真面目にやるだろう」、前記(8)、(15)「一山の僧侶がえらそうにしすぎる」、前記(2)、昭31・11・30付岡本調書には前記(5)、(16)「一山僧侶の堕落」、昭31・12・6付検察調書には(17)「一人寝るのが淋しい」、前記(15)、(8)、(1)、(14)、(5)、(6)、(18)「将来自分はどうなるんかという淋しい気持」、昭31・12・7付検察調書には前記(16)、(15)、昭31・12・25付検察調書には前記(8)、(15)、(18)、(3)、(7)、(14)、(6)、(19)「上の僧侶の反省を求める」となつていて、右動機の一づつについては既にいずれも本件犯行の動機と考えられない所以を大体随所に関連して述べたところであるが特に注意をひくことは右動機が供述調書毎に変遷していることである。これについては被告人も当公判廷で述べているように、それぞれの動機としての供述は被告人が自ら述べたのに間違いはないのであるが、捜査官自らにおいて、本件放火を敢行する動機として薄弱なるを悟り、その当時において捜査官の知り得た資料を基として誘導的な質問を発し、被告人の口より次々と新らしい動機を追加供述せしめ昭31・12・25付調書に至つてこれを取纒め整理したものであることは前記の供述調書毎の動機の変遷自体からこれを知ることができる。そうすると右供述調書中には動機らしきものの記載はあつても本件犯行を敢行するに足ると認められるような真の動機は存在しないといわなければならない。

また、検察官は本件放火事件についての自供の中核をなすものは昭和三十一年十一月二十九日付岡本警部作成の供述調書以後の捜査官の調書であると為すけれども、まことに恣意的で理論的根拠を欠くものである。思うに被告人は本件犯行の道行として大講堂内に侵入したのは右調書に至るまでは東入口よりと述べていたが、前記のように衣斐刑事部長より十一月二十七、八日頃取調べられた結果、同人の供述が西入口より侵入したと変つたのであつてそれは鐘台角より西入口の鍵(証第一号)が発見されたことから同刑事部長の誘導的質問によつて追求され止むなく被告人が自供したものである。そうすると検察官が自供の中核を為すと称する本自供調書も任意性信憑性を欠くことになり到底これを断罪の資料とすることはできない。

被告人の供述中、真実なもの、半ば真実なもの又は虚偽なものを包蔵している場合これに適当な証明力を附与することは裁判所の自由裁量権に属することは検察官主張の通りであるが、本件の如く証拠の根幹たる自供の中核に任意性信憑性の疑点が多々存し且つ確実な補強証拠の見当らないばあい、右検察官の主張は採用し難いものといわなければならない。

(ヘ)以上で検察官の主張する各点につき検討して当裁判所の判断を示したのであるが最後に本件捜査の過程を辿り、供述の変遷の理由を検討し被告人の自供調書の任意性、信憑性の乏しいことを述べよう。

第八回公判期日における証人衣斐範夫の供述記載によると本件火災勃発するや、大講堂は重要文化財であることよりこれを重大視し滋賀県警察本部長はいち早く特別捜査本部の設置を決定し刑事部長をして総指揮に当らしめ、先づ大阪府警察本部細井技官に漏電でないかとの点の鑑定、又京都市消防局安藤技術吏員に出火原因並びに出火場所の鑑定をそれぞれ依頼し、捜査の主眼を第一、本件は特殊な建物であり山上にあるから、その附近に居た者又は延暦寺関係の者ではないかという点第二、アベツクやルンペン等のいたずらでないかとの点第三に怨恨による計画的犯行でないかとの点第四、従業員が怨恨を抱いていたのではないかとの点第五、重要文化財の窃盗が目的でないかとの点に置きこれに従つて、職員を班別して捜査を進めたところ中西鑑識結果によつて漏電の疑は霽れ安藤鑑識報告書によつて出火点はほぼ判明した。そのうち被告人が本件放火犯人として捜査線上に浮び上つてきたのであるがその根拠は第九回公判期日における証人中野勇の供述記載によると(一)検証の結果大講堂の東入口、西入口正面入口の各扉は完全に施錠してあると思われる状態で各錠が発見され安藤鑑識の結果出火点は大講堂内部床上と判明したので、犯人は施錠をはずし侵入し放火後再び施錠したものであること、(二)被告人は昭和三十一年六月頃から大講堂と根本中堂の扉の開閉を受持ち各堂の鍵は被告人が保管し火災前日被告人が閉扉したこと、(三)被告人は大講堂の火災を坊城に起されて知つたが同人が松岡と田中を起しに行けといつたので両人を起しに行つたが素足で行つたため足が痛かつたので山上事務所へレインシユーズを履きに戻つて一人で大講堂へ行つたと述べているのに反し、松岡は起されて休憩室を見た時被告人が外に立つているのを見た、又田中は被告人に起されて起きると窓越に同人が立つているのを見て外へ出て被告人と一緒に已講坂を上つたと述べている点が異ること、(四)被告人は最初は出火直後西入口へ行つたがその時は煙は出ておらず火の気も全然なかつたと云うていたが、その後西入口の鍵について尋ねられて仏さんを出すため西入口へ行つたがその時煙が出ていて入れなかつたと供述を変えたこと、(五)被告人は平素寺院の高僧の乱行について不満に思つていたことの五点であるが右のうち(二)はその通りであるが、この点のみ独自に考えては何の意味もなく、又他の四点はいずれも前述したとおり捜査官の考方に同調できない又前記証人衣斐範夫の供述記載によれば同人は被告人が本件放火の犯人であるとの確信を抱いた根拠として(一)被告人が坊城に起され前夜盗んだ賽銭を受付室の机の抽斗へ入れに行つたと供述しているのに副うて坊城も被告人が受付室から出て来るのを見たと述べていること(二)被告人が放火に行つたとき正面扉の閂を差込んだと供述しているのに副うて閂がはまつた状態で発見されたこと、(三)本当に自分が悪かつたと後悔している点(四)悪いことをしていながらこんな立派な食事を頂けるのは勿体ないと云うている点を挙げているが右(一)(二)点のいずれも被告人の放火を認定する補強証拠と為し難いことはすでに述べたところで(三)点は捜査官が左様判断したまでであつて真の後悔なりや否や他の証拠を以て決しなければならないし(四)点は被告人は多くの窃盗を為しているのでそれを意味しているものとも思われるのであつて、いずれも被告人を放火の犯人なりと為す根拠と為すことはできない。

ともあれ被告人は昭和三十一年十一月十三日窃盗で逮捕され同日放火を自供(この自供が任意性信憑性を欠くことは既に述べた)したが次に各自供調書の変遷及びその根拠併せて被告人がいかに誘導暗示にかかり易いかを見よう。

先ず供述調書中供述の変つた主な点を拾つて見ると(イ)昭31・11・22付調書までは「玄関から出た」となつていたのが昭31・11・26付調書から杉生垣の隙間と変り、(ロ)昭31・11・26付調書までは「東入口」となつていたのが昭31・11・29付調書より「西入口」と変り、(ハ)昭31・11・22付調書までは「寝床の中で放火を決意した」となつていたが昭31・11・26付調書より「火鉢のそば」と変り、(ニ)昭31・11・22付調書までは「放火に行くときローソクを取出した」となつていたが昭31・11・26付調書からは、「先に取出し寝床の下へ敷いておいた」と変り、(ホ)昭31・11・26付調書までは「大講堂にはいつて畳のあることがわかつた」となつていたが昭31・11・29付調書では「畳のあることは前から知つていたと変り、(ヘ)昭31・11・22付調書では「雑布で足を拭く」となつていたが昭31・11・29付調書では「手で土を払う」と変つている。思うにこれは被告人において全然覚えのないことを自供し、その道行につき追求され、(イ)止むなく正面玄関から出ていたと答えていたところ、山上事務所検証の結果捜査官に玄関の障子が開閉に大きな音がすること、杉生垣に隙間のあることが判明しこれによる誘導的質問によつて供述の変更となり(ロ)当初東入口と云つていたのが西入口の鍵の発見から西入口に供述が変りその他の点も質問の仕様によつて易々と供述を変えたことが窺え検察官はこの点については被告人は意識的に嘘と真を取り混ぜて供述して置けば無罪になると考えて供述したと云うが、それについて証拠の無いことは既に述べたところであり、到底懺悔による真実の自白とは見られない。尚検察官は被告人は、経験者でなければ知り得ぬことを詳細に述べていると主張する。なるほど供述調書中には玄関をガラガラと開けたとか、雑布でぐいぐいと後ずさりして足を拭いたとか、手でパツパツと土を払うとか、途中で小便した(被告人がさきに小便したいから目が覚めたと供述したのでどこで小便したかとの質問となつたと考えられる)とか、東入口の石段の手摺を両手で握つて懸垂をするような格好で降りたとか、直径約二糎位の丸さに蝋を垂らしたとか、ローソクの焔を手で囲つたとかいうが如きが供述に信憑力を与える意味の「実験者の詳細」と云い得るか説明するまでもなかろう。

之を要するに本放火事件は被告人の自供に任意性、信憑性を欠き、且つ被告人の所為なりと断ずべき確実な客観的証拠は何も存在しない。従つて被告人については結局犯罪の証明が十分でないと言うの外なく刑事訴訟法第三百三十六条後段により無罪の言渡をせざるを得ない。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 柳田俊雄 古川秀雄 佐古田英郎)

図一<省略>

図二<省略>

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